内容説明
メーカーの数も、最盛時には120社以上と称される。それが技術的にも経営的にも、文字通り“食うか食われるか?”の格闘を演じた。そして残るものはわずか4社、この興亡のあとは、源平時代や織田・徳川の戦国時代などに比べても決して見劣りのしない、興亡ドラマである。この産業興亡史だけは、日本において前代未聞といえる。
目次
第1章 オートバイ技術の内容
第2章 後進・日本のオートバイ産業
第3章 ガソリン・エンジンの誕生
第4章 黎明期の日本のオートバイ界
第5章 敗戦とそのあとに来たもの
第6章 日本のスクーター工業の盛衰
第7章 オートバイ大流行の先駆・バイクモーター
第8章 本格的オートバイ時代到来
第9章 戦後派の大進出と制覇
第10章 優勝劣敗強まる
第11章 日本のオートバイの世界制覇
第12章 オートバイの技術面概観
著者等紹介
富塚清[トミツカキヨシ]
明治26年(1893年)千葉県生まれ。大正6年(1917年)東京帝国大学工学部機械科卒業。大正7年(1918年)東京帝国大学助教授航空研究所所員となり、その後教授。大正7年12月以後、研究所所有の各種オートバイに乗ることになる。実地テストした二輪車は主としてアメリカ製。スミスモーターズ(回転車の補助動力。4サイクル、1馬力程度)、クリーヴランド(2サイクル)、インディアン(4サイクル2気筒)、ヘンダーソン(4サイクル4気筒)、ハーレー・ダビッドソン(4サイクル2気筒)側車付等。当時、航空用発動機の研究が主務であったが、これらのオートバイを通じて、これに興味を覚え、特に2サイクルのクリーヴランドを扱ったのを契機として2サイクル方式の研究に興味を持ち研究を開始、特に2サイクルの掃気作用の研究は独特のものでこの仕事が一生の仕事となる。戦中も、短期間、陸王内燃機(ハーレー・ダビッドソン式の軍用側車の製造工場)の顧問を務めたことあり。戦後しばらく、関係はなかったが、日本のオートバイ工業の復活と共に昭和27年頃より次第に関係が復活。富士自動車(旧時のガス電、後日立航空、現在小松ゼノア)のバイクモーターの仕事に多く従事、本田技研、昌和製作所、トヨモータース、平野製作所、長本発動機……等にも、顧問格で接触した。昭和30年頃より、「モーターファン」(三栄書房)主催の新型オートバイ試乗批判会に、テスト・ライダーとして参加することになり、約10年この仕事を続ける。当時、モーターファンのテスト・グループは棚橋東一、伊藤兵吉、影山克三が主役、富塚清、大塚新太郎、梶島郁雄は脇役であった。1ケ月に約1件あったから、試乗台数約100台におよぶ。テストの初期には、測定用機器乏しく、勘に頼ることが多かったが、後に速度性能測定装置と、ハンドル安定性測定装置との2種を開発、以後はその実測値に基づいて、的確な判定が得られるようになる。なお、通勤や地方旅行にも長らくオートバイを実用、東海道などは何十回往復したか数知れず。しかし、1973年満80歳に達して以後は、衛生上オートバイの使用をさしひかえもっぱら四輪自動車に乗ることになり、今日に至る。昭和63年(1988年)3月9日永眠、享年84歳
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