内容説明
大野一雄、中川幸夫、若林奮らとの比類ない出会い、花や動物たちとの全神経細胞を震わせる共振、それら記述不可能な体験の深みに向けて言葉を酷使する。主客未分のカオスの闇に晒され傷ついた眼、あるいは「動植物の目」によって、「物」を見ることの根源が執拗に生き直される―けだものの息による絵画論。
目次
切り取られた植物の死はいつ始まり
苔、黴、蛞蝓の軌跡、反絵
1(遠い、泥、有刺鉄線、雨滴の内部へ―沢渡朔に;もう一度、あの廃墟;触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン―大野一雄頌;緋の異貌 動物媒―中川幸夫に;若林奮―人間でないもの ほか)
2(灰褐色の亀裂やかすれの中に;若冲の使った鮮やかな青は;地平線の上、灰鼠がかった菫の;ハイデ(荒野という名の花)―再びホルスト・ヤンセンへの旅
思い出すことと忘れられないこと ほか)
著者等紹介
福山知佐子[フクヤマチサコ]
画家。毛利武彦に師事。絵画のほか、写真、映像作品、批評、エッセイ等多方面で活動(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。
ヴェネツィア
108
創作者による芸術論集。また、大野一雄、若林奮、種村季弘、毛利武彦らへのオマージュとレクイエム。ここには死の影が付きまとって消えることがない。絵は生の記憶であるとともに、そこに定位することにおいて死の記録ともなる。そして、エロスはまた本然的にタナトスを内包している。彼女が語る「反絵」とは、自分が向かう対象とは常に未知なる関係において対峙することに外ならない。すなわち「みいる」ことは「盲いる」ことなのだ。見ることにおいて記号的なものを排除した時に、突如としてそこに立ち現われる戦慄こそが美への共振たり得るのだ。2014/02/26
zirou1984
38
幾つかの偶然と必然に導かれてこの本に出会った、だからこれは自分にとって個人的な宝物。画家・福山知佐子の持つ感受性はあまりにも強過ぎて、皮膚と神経が裏返ってしまったかのよう。それは絶えざる痛みに満ちながらも、野生の動物が本能で薬草の臭いを嗅ぎ分けるかの如く彼女は自分に必要な風景を、世界を網膜に焼き付け、そして分泌する。彼女の言葉に触れていると芸術というものは真善美なんて評価以前に、私が生きるに足ると思えればそれで十分なのだと気付かさせられる。著者と同じ時代を生きている、ただそれだけで嬉しいのと思えるのだ。2013/09/15
兎乃
26
帯は谷川俊太郎氏『書いても描いても尽くせない 命の豊穣に焦がれて ヒトの世を生きる福山知佐子は どこまでも濃密なエロスの人だ。』 昨年11月に水声社から出版された本書。「見る」事とは何か、その眼球が感じたもの、網膜に焼き付けるほどに「見る」その研ぎ澄まされた触覚を持つ画家・福山佐知子が紡ぐ言葉。静かで脆くて繊細、けれど強靭な言葉は 詩を越えて頭蓋骨の裏側に染みとなり、やがて記憶に刻まれる。この感性に触れ、至福の時を過ごしました。2013/02/11
紫羊
16
繊細さと強靭さ、色彩や触感、匂いや湿りが、ページから立ちのぼってくるような、奇跡のような一冊でした。2014/03/29
はりねずみ
5
中川幸夫、大野一雄、若林奮…動物の目を持った、生命の観察者•表現者に対する、画家の福山佐知子の愛情が読み取れる。世界は、そのような形式的なものであるはずがない。花は花として歪められてしまっているが、その生命の姿は、一般に花として認知されている姿をとっていない。歪められた生が蔓延する世界で、著者の無声の悲痛の叫び声は、本書に登場する表現者達に救い感じているよう。 著者が道を歩けば、その目で観察すれば、道の脇の植物は生命を取り戻す。生命が揺蕩い始め、なんという騒々しい世界なんだろうと感じる。再読したい。 2017/07/16




