内容説明
大正から昭和初期を駆けた夭折の記者。大阪朝日新聞の花形記者を経て、ハワイ、ベルリンでの国際会議に出席。平和・婦人問題等をテーマに、明快な評論・随筆を発表した。27歳で急逝するまでの生涯と、瑞々しい作品の一部を紹介する。
目次
序章 北村兼子についての素描
第1章 学者の家系の娘として
第2章 法律を学ぶ「女大学生」
第3章 『大阪朝日新聞』の花形記者
第4章 セクシュアル・ハラスメントとの闘い
第5章 政治進出のための準備
第6章 国際舞台での活躍
作品抄
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
jamko
8
まだ女性に参政権のない時代に男子と肩を並べて関西大学で法律を専攻し、大阪朝日新聞の花形記者として活躍し、ベルリンで開催された万国婦人参政権大会にて堂々たる演説で喝采を浴びた女性がいた。北村兼子はその卓越した文才で世間の注目を集め時代の寵児となりながら同時に反感も買った。彼女は淫婦であると「貞操問題」を取り沙汰する通俗紙の記事が引きも切らず、今で言う強烈なバッシングに晒されるも強い意志を持って筆で闘う。「蚤のような卑しい男子が数でかかって夜襲する、むかし、スペインに行なはれた宗教吟味よりも意地の悪い→2018/11/12
mit
6
北村兼子は大正末期~昭和初期、婦人参政権獲得に向け筆を振るったジャーナリスト。関西大学初の女子学生として法律を学ぶ。大阪朝日新聞を退社後、万国婦人参政権大会(1929、ベルリン)に参加。飛行機の訓練を受けたが、腹膜炎にて27歳で急逝。「第一に癪にさはるのは法律の文章である。こんな文章は現代人の書いたり読んだりするものとは違ふ、昔は法律の威厳を保たせるといふ間違つた考へから故意に難解な術語を列べて喜んでゐたものらしい、(中略)、モシ委員の中に女が加つてゐたらそんなカ上にバを加へたようなことはせぬであろう。」2015/09/05
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