出版社内容情報
津軽には3つの宝物ある。それは、岩木山、津軽平野、十三湖である。
十三湖の東側には、吉田松陰遊賞の石碑が建立されている。著者は幼いころ、その場所が好きだった。松陰が見たであろう秀峰岩木山を眺めながら、寝転がって流れる雲を見上げ、「絶対に偉くなって母親を楽にさせる」と誓った。それが青雲の志となり、19歳で北海道に渡った。
札幌市民となって約半世紀、九州対馬を訪問したことをきっかけに、それまで記憶の奥底に眠っていた謎が目覚める。幼い頃に聞いた母の子守唄に登場する「蒙古」、そして自分の先祖と聞いた海賊「安藤水軍」。その2つの謎を解く旅を『蒙古(もんこ)の子守唄』として令和4(2022)年に上梓したのだが、執筆中、新たに3つ目の謎が生まれた。それは津軽が生んだ文豪、太宰治である。彼の祖先は、蒙古襲来から逃げ延びた対馬の人ではないか?
この3つの謎を解くべく、旅(執筆)を始めた筆者。特に注目したのが太宰治の小説『津軽』と、司馬遼太郎の『街道をゆく・北のまほろば』であった。太宰は生まれ育った津軽をどのように描いたのか。そして司馬が青森を〝北のまほろば〟とまで褒め称えた理由が何だったのか。それが知りたかったのである。しかし、両書を読み進めていくうち、いくつかの疑問を抱く。
司馬は、津軽の人々が飢饉に苦しめられたのは、弘前藩の相次ぐ新田開発によって無理に無理を重ねた「コメ一辺倒政策の悲劇」と断罪している。これに著者は違和感を持ち、司馬への反論を決意する。
さらに、太宰は『津軽』を風土記というが、それは風土記に名を借りた「遺書」であるとの考えに至った。同時に、太宰が見ていない、書いていない、自分自身もまだ知らない「津軽」を探求してみたいという、新たな旅(執筆)への思いに駆られる。
津軽は本当に悲劇の舞台であったのか。そして「我が故郷とは」と、改めて自らに問いかける〝津軽再発見の旅〟が、ここに始まる。
内容説明
北のまほろばは、悲劇の舞台だったのか?そこは、司馬遼太郎が「北のまほろば」と称した地!その地に起きた悲劇とは。はたしてそれは真実なのか?いま、津軽の歴史を探求する旅が始まる。
目次
第1章 北のまほろば
第2章 二つの半島
第3章 青い森の恵み
第4章 津軽人気質と伝統文化
第5章 津軽の誇り 三つの宝物
第6章 三つの津軽
第7章 司馬遼太郎への反論
著者等紹介
三上洋右[ミカミヨウスケ]
1945年(昭和20年)11月10日、青森県北津軽郡中里町(現:中泊町)生まれ。1983年(昭和58年)、町村信孝元衆議院議長が衆議院議員選挙で初陣を飾った際、豊平区連合後援会幹事長として当選に尽力、以後、町村代議士門下となる。1991年(平成3年)の選挙で12,000票の得票で初当選。以後9回連続当選。6回目の選挙の得票数20,898票は、政令市移行後の市議選史上最多。現在9期目。この間、さっぽろ自民党(自民党札連)会長、自民党道連副会長、第29代札幌市議会議長等の要職を歴任。現在は、さっぽろ自民党会長代行、札幌市議会自由民主党議員会顧問、自由民主党北海道第三選挙区支部幹事長等として活躍中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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