出版社内容情報
●前口上……年表にしたら、見えてきたこと
あさま山荘の銃撃戦と、その後に続いた同志大量殺害のニュースが世間を震撼させてから、早くも30年たつ。30年と言えば、35、6歳くらいまでの人は、連合赤軍事件のリアルタイムの記憶はないということになる。にもかかわらず、この事件はいまなお少なくない人々の耳目を集めている。
なぜか。それはこの事件が21世紀の今日でも「重い」からだろう。
連合赤軍事件、とりわけ同志殺害の事実は、日本の左翼運動に致命的といっていい打撃を与えた。事件以降、左翼は大衆的な求心力を失い、「新左翼」はいまや死語となりつつある(もっとも、その原因は「連赤」だけにあるわけではないが)。したがって「連赤」は、左翼運動にシンパシーをもつ(もっていた)者にとって、触れたくない「重い」過去だろう。
一方、「連赤」を知らない世代にとっては、自分と同じくらいの年齢の者が銃を握って闘ったことは、衝撃的であるに違いない。そして、それが30年前だとはいえ、この日本で実際に起こったということは「重たい」疑問を生む――なぜ、そのような事態に至ったのか?
この「なぜ」は30年の間、繰り返し問われ続けられたものだが、決してって改めて(初めて)気がつくことも多い。赤軍派と革命左派(当時は「京浜安保共闘」という名で報道されていた)は当初、互いに別個の山岳ベースを持っていて、その後合流していること。また、ベースでの連合赤軍としての活動は、指導部(中央委員)は会議、被指導部はまき作りをえんえんとくり返していることなどは、その典型例だろう。
また、なにより、ひとつひとつ独立していると思える事象が、互いに結果となったり原因に再生したりして、結びついていることが年表からみえてくる。
日本赤軍のリーダー重信房子は言う。自分たちの「リッダ闘争」(イスラエル、テルアビブ空港で岡本公三ら3人が銃を乱射)は、連合赤軍の同志殺害について内省した結果の闘争なのだと。〝自爆テロ〟の始まりはこの闘争だったという説がある。とするなら、〝自爆テロ〟の遠因には、連合赤軍事件があるのかもしれない。それくらい、連合赤軍事件は「重い」のである。
事件の全貌をこの1冊に凝縮した、読む年表。新左翼の誕生から「連赤」裁判まで、年表にし てはじめて見えてきた、事件の客観的な流れとそのプロセス、社会情況との密接な連関。元連 合赤軍兵士・植垣康博による詳細な「解説」を付す。
第1章 連合赤軍前史――1945-1969
新左翼の誕生から69年「4・28」まで
第2章 革命左派と赤軍派の出現――1964-1971
両派の「武装闘争」
第3章 連合赤軍の成立と「総括」――1971.11.30-1972.2.18
死に至る総括の過程と森・永田らの逮捕
第4章 あさま山荘の10日間――1972.2.19-2.28
銃撃戦の多角的な検証
第5章 その後の「連合赤軍」――1972.2.28-
裁判とそれぞれの総括
第6章 解説に代えて――植垣康博ロング・インタビュー
当事者による連合赤軍「いまだから語れること」
植垣康博氏ロング・インタビュー
連合赤軍・いまだから言えること
――赤軍派内〝独立愚連隊〟の敗北と総括が暴力に至るメカニズム(一部抜粋)
■権力に負けたんじゃない
僕がテレビなどに出たりして、オープンにやっていることが気に食わない人もいるようですね。たとえば佐々淳行氏は、『正論』(02年6月号)の石原慎太郎都知事との対談の中で、僕のことを「元懲役囚」と呼び、僕がテレビに出ていることを「もってのほか」とみなしています。ま、さっきのようなメッセージを込めているので、当然といえば当然ですが(笑)。佐々氏は、「あさま山荘」でだいぶ稼いでいるようですが、僕と一緒にテレビに出ることに対して、僕を利することになるとか何とか理屈をつけて、自分から身を引いている。ずいぶんと立派な「侍」です。僕との対談ならば応じるというようなことを言っていますが、テレビ局がまじめに企画したら、はたして応じるかどうか大いに疑問ですね。
佐々氏たちは、「あさま山荘事件」を警察側から描いた映画にかこつけて、警察の勝利を喧伝し、その当時を戦後警察の最高の時代と称賛したりしています。でも、「ホントにあなたたちが勝ったの?」と聞いてみたいですね
内容説明
年表にしてはじめて見えてきた―。事件へと至るプロセス、社会情況との密接な連関、元連合赤軍兵士・植垣康博による詳細な「解説」を付す。
目次
第1章 連合赤軍前史―1945‐1969/新左翼の誕生から69年「4・28」まで
第2章 革命左派と赤軍派の出現―1964‐1971/両派の「武装闘争」
第3章 連合赤軍の成立と「総括」―1971.11.30‐1972.2.18/死に至る総括の過程と森・永田らの逮捕
第4章 あさま山荘の10日間―1972.2.19‐2.28/銃撃戦の多角的な検証
第5章 その後の「連合赤軍」―1972.2.28‐/裁判とそれぞれの総括
第6章 解説に代えて―植垣康博ロング・インタビュー/当事者による連合赤軍「いまだから語れること」
著者等紹介
椎野礼仁[シイノレイニン]
1949年生まれ。現在、編集プロダクション(有)椎野企画主宰
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