出版社内容情報
“武智歌舞伎”で時代を沸かせた男、“市川雷蔵”を世に出した男、“愛染恭子”のホンバンを監督した男。「危険な魅力を持つ芸術家」武智鉄二。足かけ10年にわたり関係者への取材を元に、彼の芸術とは何だったのかを探る力作。
“伝統”の守護者、“異端”の演出家、“エロス”の解放者。豪放と虚栄、奢侈と零落……。芸術の落とし子は自らが時代を体現していた。
武智鉄二 大正元年(1912年)― 昭和63年(1988年)
彼ほど前半生と後半生とで、評価が百八十度変わる男はいない。
武智は関西の資産家の息子として生まれ、京都帝国大学に進学。
父の死後、莫大な資産を受け継ぐ。
演劇評論家として雑誌「劇評」「観照」「演劇評論」を刊行。
武智は大戦中、能・浄瑠璃・落語などの名人を集め、少人数で鑑賞する「断絃会」を発足。その費用は月に二万円、現在の金額で一千万円以上ともいわれる。
断絃会で知り合った谷崎潤一郎をはじめとする人脈、ありあまる資金。そして歌舞伎の動きを日本古来の「ナンバ」(右手と右足、左手と左足を同時に出す動き)にまで立ち返り、原作尊重主義とリアリズム、新しい演劇理論での歌舞伎実験的公演を演出する。
そこでは実川延二郎(現・延若)、中村扇雀(現・坂田藤十郎)、坂東鶴之助(現・中村富十郎)市川莚蔵(故・市川雷蔵)、嵐鯉昇(現・北上弥太郎)らを輩 出し沈滞気味の歌舞伎界に強烈な刺激を与え、扇雀・鶴之助の人気が沸騰。“扇鶴(せんかく)時代”という語も生む。
これがいわゆる「武智歌舞伎」である。
古典芸術の保護育成者。新しい芸術理論の提唱者。実践者としての評価。
さらにオペラの世界まで武智の演出は広がるが……。
武智の後半生は、ポルノ映画をつくり続ける。しかし、そこに芸術的価値を論ずる人は少ない。
「白日夢」は愛染恭子・佐藤慶のホンバンが話題となる。
「黒い雪」は公開と同時に「わいせつ図画公然陳列罪」に問われ裁判となる。
そして参議院選挙に自由民主党より出馬、落選。
怪しげなサブカルチャーの仕掛け人。
これらの仕事に対する評価は芳しくない。
まもなく生誕百年を迎えるいま、再評価の機運が高まる武智鉄二、初の評伝。
序 章 今なお見え隠れする「武智鉄二」
第一章 武智鉄二がいた時代
第二章 対極を生き抜いて
第三章 異才のルーツ
第四章 ぜいたくのレッスン
第五章 「滝川事件」と祇園と速水御舟、そして劇評へ
第六章 『かりの翅』の世界
第七章 「断絃会」の日々
第八章 「武智歌舞伎」の栄光
第九章 戦闘的論争者の挫折
第十章 奇妙な裁判劇
第十一章 果てしなき迷走
第十二章 武智鉄二は「終わらない」か
年表
【著者からのコメント】
一人の人物をまるごと描ききることはノンフィクションの書き手にとって究極の目標にちがいない。だが、そこには陥りやすい罠がある。書き手の思い込みというか、事前にあるいは対象と取り組みながら抱き続けている主観によって、出来上がりが左右されることである。
最初から対象を畏敬し、あるいは惚れ込みすぎると、偉人伝、顕彰録、賛歌に近くなる。逆に社会的に指弾されるべき悪の要素が強いと、思い込めば告発の書、巨悪伝になりかねない。
ではバイアスがかかるのを恐れるあまり、知り得た事実だけを集大成したらどうか。資料集にはなるが、書き手の心は読者に伝わらない。署名入りのノンフィクションと呼ぶだけの価値はないのである。
そんなジレンマを感じながら、僕は他人が書いた人物ノンフィクションを読み続け、共感、賛嘆したり物足りなさを味わったりしてきた。そんな時間のなかで、初めて週刊誌編集の現場に関わったとき、当時の編集長が言った言葉を思い出す。
「人間が最大の関心を示すのは人間である。それもまったく知らない人間よりも、ほんの少しでも知っている人間に対して、より多くの興味を持つものである」
忘れかけているこの言葉が、さまざまな取材をしているうちに、時々思い出される。「ほんの少しだけ知っている人間を、より詳しく調べ、読者に報告する。そ の際に、対象の人物が世間に少し知られているイメージとは違う実像であったとしたら面白い。そんな対象を探し出してみたい」と時折、考えていたが、簡単に 見つかるわけではない。どんな人物を取り上げるかと考えて浮かんできたのが武智鉄二であった。
すでにこの人は故人となっており、社会的に残された位置付けは「伝統芸能の保護者・創造者」と「ポルノ映画の巨匠」にはっきり分かれ、前者はすでに忘れられがちであった。僕はこのように真反対の評価を持つ人間に興味を持った。どこで対極が一つになるのかを考えながら動き始めたのだが、両者は交わらなかっ た。
武智を知る人には、共通する反応があった。
伝統芸能畑の人は、いかに武智の業績が素晴らしかったかを語り、最後に小声で付け加える。「ポルノをやらなければ、あの方は今頃、もっと栄光に輝いていたはずです」。まるで、生来の悪癖や中年からの破廉恥狂いを、声をひそめて語るようである。
一方ポルノ畑の人は「そういえば、伝統芸能で鍛え上げられただけにどこか違っていましたね」と、まるで貴種流離譚のようなことをいう。どこまで行っても水と油である。 どちらかにスポットを当てればどちらかをまったく無視するほかない。
別の仕事をしていても、この人はどこからか顔を出す。特に歌舞伎や文楽を観ていると、どうしても武智の言ったことを思い出してしまうので、気が休まらない。そのうちに、伝統芸能やポルノ以外の世界でも武智の名前が浮上する。
なぜ武智鉄二を書きたいのかと、私的な動機を振り返った。僕は昔、劇評という仕事にあこがれ、それが無理だとわかった時点でジャーナリストを志した。幸い現在にいたるまでこの仕事は続けている。
僕がそんな志にめざめたとき、「武智歌舞伎」には間に合わなかったけれど、武智は、はるか前方を歩いていた。僕は三十年近くを武智の姿を見ながら歩いていたのかも知れない。
(本書まえがきより抜粋)
【著者紹介】
東京都生まれ。東京都立大学(現・首都大学東京)卒。出版社編集者を経て独立。以後フリーランサーとして取材執筆活動をつづける。主著として『イベントプロデューサー列伝』(日 経BP社)、『行動する異端 秦豊吉と丸木砂土』(TBSブリタニカ)、『音羽の杜の遺伝子』(リヨン社)など。
内容説明
「伝統」を守った男は、なぜ「ポルノ」映画の監督になったのか。豪放と虚栄、奢侈と零落…芸術の落とし子は自らが時代を体現していた。
目次
今なお見え隠れする「武智鉄二」
武智鉄二がいた時代
対極を生き抜いて
異才のルーツ
ぜいたくのレッスン
「滝川事件」と祇園と速水御舟、そして劇評へ
『かりの翅』の世界
「断絃会」の日々
「武智歌舞伎」の栄光
戦闘的論争者の挫折
奇妙な裁判劇
果てしなき迷走
武智智二は「終わらない」か
著者等紹介
森彰英[モリアキヒデ]
東京都立大学(現首都大学東京)人文学部卒業。出版社編集者を経て1969年に独立。以降フリーランサーで取材執筆活動を続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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