出版社内容情報
評論集
著者=入沢 康夫(いりさわ やすお)
装幀=亞令
詩に一生をかけるなんて時代錯誤だろうか? 本当にそうだろうか? 入沢康夫 そもそも詩は可能なのか?
現代を生きる人間の現実と詩を書くことの関係を問う。問いは〈詩は表現ではない〉という逆説に直面するであろう。詩は、時代の只中で未完であることを背負い続ける生の必死の意思表示であるしかない。
目次
現代詩の地獄下り
詩の創造
詩の未来に賭ける
詩人と狂気
「詩論時評・一九六三年」より
幻想と詩の接点
擬物語詩の可能性
感受性の容れ物のはなし
詩の構成
「現代詩とは何か」について〔ほか〕
著者等紹介
入沢康夫[イリサワヤスオ]
1931年生まれ。詩人
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感想・レビュー
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4
再読してほとんど苦笑を禁じ得ないのが入沢康夫が知らないふりをしているのか分からないが(あるいは、興味がないのか)「詩は表現ではない」「詩と小説の接近」云々を言っている時、ほとんど『詩と詩論』の時期の春山行夫の問題を縮小反復している。そして、春山行夫の方「が」まだマシなことを言っているような気がする。もちろん、入沢が非難するようなトートロジー(=「詩(ポエム)とはポエジイである」)に春山が最終的に落ち込んで行くことになるが、むしろ、それが越えることができない「限界」であったことの何よりの理由だったのでないか2017/10/15
水紗枝荒葉
0
「あとがき」に「飽きもせずにたった一つのことだけ」とあるように、著者の主張は一貫しすぎるほど一貫している。「詩は表現ではない」という例のアレだ。それゆえに、60年代に散発的に書かれたエッセイを集めたこの本は、当時の言説空間・詩論壇・社会状況を窺い知るためのきわめて不透明で狭隘なガラス窓と思った方が面白いかもしれない。例えば『万延元年のフットボール』の「社会的主題」が取り沙汰されることについて「ここに作者の幸と不幸がある」と述べ、「空洞考」は「大学の空洞化」から着想した「時局をわきまえぬ空論」と自注する。2024/07/29