感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
鐵太郎
15
慶長18(1613)年、のちに慶長遣欧使節と呼ばれた使節団が仙台藩を出発します。支倉常長を「大使」とした日本初の欧州への友好使節で、メキシコ経由で太平洋と大西洋を越えてスペインに到着し、なんとそのあとローマにまで到達し日本人として初めてローマ法王に公式に謁見します。7年の旅ののち元和6(1620)年に帰国し、そののち支倉は不遇な生涯を送ったとされますが、この歴史を慶長使節船ミュージアム館館長である濱田直嗣は詳細に研究し、新たな歴史を描き出します。なるほど、こんな意図を持ちこんな苦労をした旅だったのか。2020/10/20
茶幸才斎
3
1613年、伊達政宗は支倉常長を大使に立て、スペイン国王フェリーペ三世とローマ教皇パウロ五世宛ての親書を託し、彼らをヨーロッパに派遣した。目的は通商と宣教師の招聘。本書は、この慶長遣欧使節の旅の軌跡を詳細に追い掛け、使節一行が何をなし遂げ、何をなし得なかったかを明らかにしている。現地で多大な歓迎と尊敬、丁重なもてなしを受ける一方、幕府によるキリスト教弾圧の報やイエズス会の横槍により、目的達成は困難を極める。海外との通信など覚束ない時代、遠い異国の地で常長は、幕府や政宗に対しどんな想いを抱いていたのだろう。2013/01/28
後藤良平
2
サンファン館で購入したもの。バタバタと展示・掲示を見ためか、今一つどんな背景で何をするために行ったのかわからなかったが、これを読んでやっと理解できた。この時代に43歳から50歳まで、宮城からアカプルコ〜メキシコ〜スペイン〜ローマ〜スペイン〜メキシコ〜マニラ〜長崎〜宮城。支倉常長の精神力の賜物と思う。伊達藩を代表して交渉を何ども重ねながら、最後はローマ教皇との謁見と親書を渡すことに成功。その間徳川がキリシタン迫害、そして帰着した時に、政宗もキリスト教禁止を決断。何とも悲しい気持ちになる。年間No.115購入2020/11/15
Hisashi Tokunaga
2
天正も慶長も岩倉の遣欧使節時に発見(再発見)されたという日本の因果。本書を読んだ限りでは、天正使節に比して慶長使節が正に歴史は二度繰り返す喜劇としてとの印象を持った。たかだか30年の差しかないのに。で、その原因を探ることをこれから楽しみたい。大航海時代の世界史に極東に位置した日本が、正に戦国時代から徳川政権へと移行する過程で、キリスト教の大変革(プロテスタント、英国国教会など)が絡む諸国間のバトルに巻き込まれればひとたまりもない。今の日本の一部がこの16ー17世紀にすでに現出していた。岩倉は何を見た?2015/06/19
さんつきくん
2
1613年。藩主伊達政宗公の命を受けローマを目指した慶長使節団。支倉常長はサンファンバウティスタ号に乗り宮城県石巻市荻浜地区月浦から太平洋を渡った。最終的に悲劇的な結末をむかえるも支倉常長は偉業をやってのけた。が、あまり知られていない。理由は詳細な記録が残っていないから。本書は支倉常長がサンファンバウティスタ号に乗るまでの経緯。特に海外に出てからのことにページが割かれている。理由は海外での記録の方が残されているから。 個人的には、19世紀まで残っていた「支倉常長の日記」がなぜ散逸したのか。結果的に探2013/03/14