出版社内容情報
デカルト(1596-1650)の『方法序説および三試論』(1637)や『省察』(1641)が刊行され,その思想はオランダの諸大学に浸透していった。それら新しい思想を好意的に受け入れる人々が出てきた反面,デカルトの「新哲学」の台頭をこころよく思わない人々もいた。その筆頭ともいうべき,プロテスタントの牧師で,ユトレヒト大学の学長ヴォエティウスは「新哲学」の追放を画策した。その後,新旧思想の対立をめぐり大学,市参事会,アカデミーを巻き込む一連の論争が展開し,それが「ユトレヒト紛争」である。
本書には,ユトレヒト紛争の発端となったデカルトによる『ディネ師宛書簡』(1642)と『ヴォエティウス宛書簡』(1643),そして紛争を総括した『ユトレヒト市参事会宛 弁明書簡』(1645),これらデカルトによる三つの公開書簡と,この紛争にまつわる八つの付属文書を収録する。
本書簡群はフランスでもあまり注目されてこなかったが,著作とは違った,論争家としてのデカルトの知られざる側面が垣間見えるとともに,新哲学として登場したデカルト思想が時代と如何に格闘し受容されていったのかを伝える興味深いドキュメントである。
凡例
はじめに
ディネ師宛書簡
ヴォエティウス宛書簡
ユトレヒト市参事会宛弁明書簡
付属文書
(1)「アカデミー評議会の議決」
(2)「序文への補足」
(3)「ユトレヒト・アカデミーの証言」
(4)「ユトレヒト市参事会の告示」
(5)「デカルトからユトレヒト市参事会への書簡」
(6)「ユトレヒト市参事会の判決」
(7)「デカルトからフランス大使への請願書」
(8)「フローニンゲン・アカデミー評議会の判決」
解題
総解説
あとがき
ユトレヒト紛争・関連年表
索引
山田弘明[ヤマダヒロアキ]
翻訳
持田辰郎[モチダタツロウ]
翻訳
倉田隆[クラタタカシ]
翻訳
内容説明
デカルト(1596‐1650)の『方法序説および三試論』(1637)や『省察』(1641)が刊行され、その思想はオランダの諸大学に浸透していった。それら新しい思想を好意的に受け入れる人々が出てきた反面、デカルトの「新哲学」の台頭をこころよく思わない人々もいた。その筆頭ともいうべき、プロテスタントの牧師で、ユトレヒト大学の学長ヴォエティウスは「新哲学」の追放を画策した。その後、新旧思想の対立をめぐり大学、市参事会、アカデミーを巻き込む一連の論争が展開し、それが「ユトレヒト紛争」である。本書には、ユトレヒト紛争の発端となったデカルトによる『ディネ師宛書簡』(1642)と『ヴォエティウス宛書簡』(1643)、そして紛争を総括した『ユトレヒト市参事会宛弁明書簡』(1645)、これらデカルトによる三つの公開書簡と、この紛争にまつわる八つの付属文書を収録する。本書簡群はフランスでもあまり注目されてこなかったが、著作とは違った、論争家としてのデカルトの知られざる側面が垣間見えるとともに、新哲学として登場したデカルト思想が時代と如何に格闘し受容されていったのかを伝える興味深いドキュメントである。
目次
ディネ師宛書簡
ヴォエティウス宛書簡
ユトレヒト市参事会宛弁明書簡
付属文書(アカデミー評議会の議決;序文への補足;ユトレヒト・アカデミーの証言;ユトレヒト市参事会の告示;デカルトからユトレヒト市参事会への書簡;ユトレヒト市参事会の判決;デカルトからフランス大使への請願書;フローニンゲン・アカデミー評議会の判決)
著者等紹介
山田弘明[ヤマダヒロアキ]
1945年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。名古屋大学名誉教授
持田辰郎[モチダタツロウ]
1952年生まれ。東京大学大学院人文研究科博士課程。名古屋学院大学教授
倉田隆[クラタタカシ]
1951年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程。島根大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。