内容説明
彼女たちはいかにして「スター」となったのか。なぜ彼女たちでなければならなかったのか。原節子と京マチ子を中心に、スクリーン内で構築されたイメージ、ファン雑誌などの媒体によって作られたイメージの両面から、占領期/ポスト占領期のスター女優像の変遷をつぶさに検証し、同時代日本社会の無意識の欲望を見はるかす、新鋭のデビュー作!
目次
序章 映画スターと日本の“戦後”
第1章 スター女優の時代―戦後日本の映画スターダム
第2章 躍動する身体―原節子の反―規範的な身振り
第3章 接触する身体―京マチ子の“情動的身体”
第4章 敗戦のスター女優―原節子の“離接的身体”
第5章 ポスト占領期における古典美―京マチ子の「静の演技」
第6章 ポスト占領期における“屈服”―原節子の“超越的身体”
終章 聖女と魔女―原節子と京マチ子
著者等紹介
北村匡平[キタムラキョウヘイ]
1982年山口県生まれ。現在、東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍・日本学術振興会特別研究員・立教大学兼任講師・都留文科大学非常勤講師。専門は映画学・歴史社会学・メディア文化論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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fwhd8325
31
映画スターという言葉も、過去のものとなりつつあります。映画が娯楽の最先端だった頃、そこで活躍するスターは、まさしく輝いていました。そして、時代を経ても、その輝きは色あせていないと思います。この著書で取り上げられた、原節子さん京マチ子さんも時代をつくられた女優だと思います。京マチ子さんは、その活躍から見ると、語られることの少ない女優だけに興味深く読みました。学術的に語られると、やや肩がこってしまうけれど、対照的な二人の女優を語ることで、時代をはっきりと感じ取ることができます。2018/04/20
funuu
15
映画を見るということは戦前戦中戦後は今と違って別の人生を体験することであった。また、政府の戦争への推進、GHQの民主化政策、東西冷戦の日本の西側陣営への協力体制の構築に使われた。1965年生まれの私は原節子、京マチ子の映画はテレビでよく放映されていた。ユーチューブ等がでてきて人にかっての映画のような影響力がある媒体は何になるのだろうか。2018/10/04
しゅん
14
原節子と京マチ子から見る戦後日本人の精神。戦後10年の中でも日本人の意識が変わっていることを示した第6章の分析が面白い。敗戦直後の占領期は、傷の深さ故の暗く荒々しい欲望が映画内で浮き彫りになる。しかし、やがて醜いエロへの反発として、より美しきものが求められる。1949年の2本の原節子主演映画、『青い山脈』と『晩春』はそうした美しさへの渇望に応えたが故に大きな支持を得た。前者は失われた青春の快活さとして、後者は奪われたナショナリズムの再発見として、当時の観客たちに感知された。このあたりの分析に説得力がある。2022/10/29
shouyi.
7
原節子、京マチ子という二大映画スターを取り上げて、彼女たちがなぜ戦後にスターになりえたかを様々な観点から考察している。映画はこれまで監督の名で語られ評価されることが多く、出演している俳優が同列に述べられることがなかったように思うが、この書で認識を新たにした。同じ著者により京マチ子に関する新刊が出た。いつか、読んでみたい。2019/05/03
Gen Kato
2
「戦後」女優・原節子と京マチ子の比較論。二人とも「日本人離れ」した存在から日本的な世界へからめとられていく。その論考。おもしろい。そうそう、原節子は台詞じゃなく「顔」で語る女優なんだよね。京マチ子は「全身」だなあ、などと頷きながら読んだ。新たに二人の映画を観たらまた読み返すと思います。2022/03/26