内容説明
消え去った地名・貧しく愛しい日々。大阪市東成区片江―こう呼ばれたどぶ川の流れる裏ぶれた町があった。猪飼野コリアンタウンと今里新地に隣接し、1970年代には地名もろとも往年の活気も消え去った。東欧研究者として知られる著者が、この町で過ごした子ども時代、そして両親を振り返る。自己と家族をテーマにした渾身の「微視の史学」。資料的に貴重な「女学生のアルバム」も併録。
目次
第1部(歴史なき街にて―一九六八~九年、大阪東成の片隅で過ごした時代;小さな六〇年代の記憶―理科少年から社会少年へ;母と紅茶と自由;青桐の秘密;小さな写真帖―私を知らない母 ほか)
第2部(温もりの理由;東野姓について;女学生のアルバム)
著者等紹介
小島亮[コジマリョウ]
1956年、奈良市富雄に生まれる。1979年、立命館大学文学部卒業。1981~83年、東京大学教養学部研究生(指導教官・西川正雄教授)。シカゴ大学歴史学部客員研究員を経て、政府交換留学生として旧体制下のハンガリー人民共和国に留学し、政治的変革期を挟んでプダペスト市、デブレツェン市に長期退在。1991年、ハンガリー国立コシュート・ラヨシュ(現在のデブレツェン)大学旧制博士課程修了。人文学博士(社会学)を授与さる。1991~2年、ハーヴァード大学研究員。さらに一九九二~三年、旧ハンガリー科学アカデミー社会学研究所研究員を経て、一九九三~五年、リトアニア国立マグヌス・ヴィタウタス大学人文学群准教授。一九九九年から中部大学に奉職。国際関係学部助教授、教授を歴任する。現在、人文学部歴史地理学科教授。著作多数
小嶋太門[コジマタモン]
出生名、東野一雄。1919年7月13日、大阪府中河内郡(現、東大阪市)に生まれる。1941年12月、関西大学法科繰上げ卒業。学徒動員により1942年2月第四師団輜重兵第四連隊に応召入隊、7月に中支派遣軍輜重兵第三四連隊に配属され中国中南部戦線に従軍。1946年2月に帰還し、1946年3月大阪中央電気通信工事局に奉職、7月に逓信事務官拝命。1949年、結婚を機にユニオン・チャック工業株式会社代表取締役に就任する。数年にわたり司法保護司、町内会長、河内史談会理事等を歴任、後藤又兵衛の研究を始める。1960年代半ばには事業に行き詰まり、1980年8月会社解散。1970年に生駒市軽井沢町に転居し、国鉄奈良駅前のホテル「ニューいろは」などに再就職する。1980年8月に正式に会社解散し、1988年に奈良市秋篠早月町に転居して年金生活に入る。2008年2月7日、奈良県立病院にて逝去
小嶋十三子[コジマトミコ]
1924年8月3日、名古屋市中区大須に生まれる。1927年に両親(市郎、タキヲ)とともに大阪に移住し、大阪府大阪市東区下味原町、中河内郡菱江などに住む。樟蔭東高等女学校(第一期生)から大阪第一師範本科女子部を卒業。1944年、布施市の意岐部小学校教諭となり、学童疎開の時期を挟んで戦後まで勤続する。1948年に退職し芦屋の田中千代学園(第一期生)にて洋裁を学ぶ。1949年、結婚を機に大阪市東成区片江町に夫婦で住み、1970年に奈良県生駒市軽井沢町に転居するまで家計を支える。1972年に小学校教員に復職し、大阪市立城東小学校、東桃谷小学校、片江小学校(亮の出身校)で産休講師として教壇に立つ。退職後、夫婦ともに奈良市秋篠早月町に転じ、若き日から令名の高かった書道に加え、彫刻、和紙ちぎり絵などの芸術活動を始める。ちぎり絵は師範免許を与えられ、書道は読売書法展など公募展に入選する。2011年10月26日、奈良県立病院で逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。