小説的強度

小説的強度

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  • サイズ B6判/ページ数 290p/高さ 20X14cm
  • 商品コード 9784828823515
  • NDC分類 901.3
  • Cコード C0095

内容説明

「近代」に誕生した「小説」は、どようにして「近代」を否認するのか。「小説」の構造を、ヘーゲル、ハイデッガーらへの批判的解読、マルクス、ニーチェ、ブランショ、ベンヤミンなどの読み直しを通して解明し、「終焉」の時代における歴史性を抽出する長篇評論。

目次

小説の方へ―「昭和10年前後」のプロブレマティックをめぐる2つのイントロダクション(「美」から「雑」へ―第一のイントロダクション;方法としてのフェティシズム―第二のイントロダクション)
文学の隠喩から小説的強度へ(市民社会のオデュッセウス;奴の悪循環;女と稀少性;疚しさと価値形成;リアリズム・技術・強度;「文」の抵抗;文学の隠喩)

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

しゅん

12
日本の近代が西洋近代という「主」にとっての「奴」にしかなれないヘーゲル的対立構造から始まり、それが吉本・江藤の「本質主義」の解体へ移り、「女」の位置へと話が変わり、やがてフェティシズム的な否認としての「小説」としてヘーゲルの図式に抗する。全てがつながってるようで、実はバラバラに裂かれている。理論的な上っ面をもつ時評的テクストであるのは本人の後書きにもかかれている通りだが、それにしても、ここまで目的の見えない長文批評もなかなかない。この彷徨いこそ、著者がブランショのいう「文学空間」として称揚したいものか。2022/11/24

seer78

10
小説を近代以前の詩概念との比較から説き明かそうとの試み。ヘーゲルやマルクス、ブランショ、吉本隆明、ハイデッガー等々多岐に渡る引用と共に紡ぎ出されるその叙述自体が、小説の起源への遡行というオデュッセウスの道行きに擬されているが、その先は、隠喩や物語へと小説を回収することから遠く、ラカンやバフチンの批判的読解を通じて、「美」という調和的理念から逸脱する「雑」としての散「文」即ち小説という境地に至る。前半のヘーゲル「主と奴」弁証法が労働=表現の隠喩の元となり、ある点で現在をも規定し続けていることに驚く。要再読。2015/11/03

ミスター

5
ヘーゲル=ホメロス的な調和する「美」から逃れる雑な強度をブランショ、ハイデガー、バフチン、ラカンを批判的検討していくテキストだが、本当に奇妙なテキストだと思う。ぶっちゃけ絓秀実が可能性を見出す否認のフェテシズムは「哲学」に対抗するものとして弱く見える。しかしそのことによって単調な図式を繰り返しながらノイズのような固有名の濁流が押し寄せるこのテキスト「壊れた」感じをメタ的に表象されていて、絓秀実のテキストのなかでも好きなものの一つである。けっきょく批評は哲学を否定できない。しかしその否認の身振りに雑が宿る。2019/03/02

hitotoseno

4
ヘーゲルによると小説は近代の市民による叙事詩だという。いわく、ホメロスに見られたような調和的な状態から疎外されたがために苦しみ、癒しを求め絶えず始原への帰還を夢見る「不幸な意識」なのだ、と。著者はそうした小説観に抗うため、統一的な「美」に回収されない「雑」の概念を打ち出す。マルクス、ハイデガー、ブランショ、バフチンなどヘーゲルとの差異を打ち出した哲学者がヘーゲルと共通する論法を用いていることを明るみにし、様々なテクストを渡り歩いた末に著者は「雑」の概念を確かなものとする領域を見出す。2012/02/21

 

3
何度読んでもよくわからない。それは、読むときに必要な前提知識だけではなくて、内容面に於いても絶えず「奴の悪循環」に陥らざるを得ない思考を追体験してゆくような論述に息苦しさを感じるからだ。ヘーゲルの「主と奴隷」や『美学』の「近代の市民的叙事詩」という問題設定を繰り込むことによって、表現=労働概念(「物語」「隠喩」……)に回収されない「文」=「雑」を「強度」として読もうとする。ただ、そこで導入される夥しい哲学や思想によって、逆説的に、小説は哲学を超えられないのでは、と思うのだが……。2020/08/03

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