出版社内容情報
人間の運命は生まれつきの遺伝子によって決定されている。ならばヒトはどう生きればよいのか? 源蔵は妻の文江と富士五湖の一つ精進湖の畔で土産物屋と民宿を営んでいる。 店のすぐ裏側が青木ヶ原樹海であることから、多くの自殺者を見てきた。ある日、湖畔に思いつめた様子の中年女性を見つけ、いつもどおり慎重に声をかける。 その女性、上条襟子は、大学教授の夫が樹海へ行くと言ってから10日も連絡がないことから不安が募り、探しに来ていた。 物理学者、写真家、世捨て人……富士山の裾野、青木ヶ原樹海に魅入られた人々が、その魅力と自分の生き方について対話を重ねるディスカッション・ドラマ。特異な自然に啓発されて、地球環境と人間の関係を探る新しい哲学が形づくられる。
新潮社で刊行された名作を、「ちょっとミステリー」シリーズとして新装収録!
早春の訪問者
熔岩洞窟の音
それぞれの森
魔の三角地帯
ゲノムの暗号
リセット地球
樹海の漂流者
決意の行く方
第一章 早春の訪問者
1
あけた窓から、早春の冷気がすべるように流れこんできた。
精進湖は、かなりのモヤだ。庭先だけが、ぼんやりと見えた。ブナの木の枯れ葉は、うす茶色のまま枝にしがみついている。栗の木には、去年の秋のイガ栗が、いくつか落ちないまま残っている。
駐車場には、数台の車が見えたが、駐車場から湖畔へ降りる坂道はもうモヤに溶けている。それから先の湖面は、まるで見えない。湖岸の左側の、岬のようになっているところに、アカマツの林がうっすらと浮かんでいるばかりだ。
カラスの鳴く声が聞こえる。かすかに水辺の音がする。
時折、湖面のあたりで、二つ、三つ、小さな物影がうごく。ほんとうは影がうごくのではなく、モヤが風で流れるのでそう見える。釣糸をたれたボートの影だ。
時計を見た。午前七時をすこしまわったところだ。
源蔵は、朝起きるとすぐに、二階にある寝室の窓を全開にする。隣の部屋で寝起きしている九十五歳の父、善之助もずっとそうしていた。一日のはじまりに勢いをつけるための、心の準備体操のようにも思える。
源蔵は大きく伸びをしながら、もう一度湖面のモヤを見わたした。相変わらず何もっちゅう青木ケ原樹海を歩いているから、足腰には自信がある。しかし、文江のいうことが、すこしは気になっている。人に向かわない言葉は、なんのためにあるのだろうかと思うこともある。
階段を、ゆっくりとおりた。
源蔵は、左脚がわるい。歩くと右脚に重心がかかる。そのため、右と左で足音が変わっている。だが、日常生活にはまったく支障はない。若いころの骨折が原因だ。
「お父さんは、おりてこなかったわよ」
朝食の仕度を始めていた文江が、ガス台に鍋をかけながらいった。
「いや、誰やら一人、湖畔にいる」
駐車場で、車をチェックした。白塗りのチェイサーが一台あった。釣人の車でないことはすぐにわかる。ナンバーを手帳にひかえた。東京の多摩ナンバーだ。
ゆるやかな下りの坂道を、水辺まで降りた。
女性だった。ベージュの半コートを着て、スカートは萌黄色だ。ハイヒールではないが運動靴ではない。肩からは、小さなハンドバッグが下がっている。
女性は、源蔵がそばまできたことはわかったはずなのだが、ふりむかなかった。
源蔵は、ラジオ体操まがいに手足を屈伸させながら、
「おはようございます」
大きな声で、しかし、ートルくらいに位置していますからね、時々こうなります。でも、こういう光景も、わるくはないでしょう。山の自然が、一時休憩といっているような、奇妙な安心感みたいなものがあるでしょう」
「雲の中にいる、ということになりますの」
女性が尋ねた。
「空中に浮くのが雲、地面に這うのがモヤと霧のようですな。もっとも、みんな中身は同じらしい。モヤと霧の区別はないと聞きました。ワシらは、これはモヤとよんでいます」
「雲の中に入ると、こんな感じなんでしょうね」
女性は、ほとんど顔色を変えずに言葉をつないでいた。都会風の言葉づかいだ。
「この湖の近くに、樹海への入口があると聞いたのですが……」
源蔵は、やはりそこかと気をひきしめた。
こういうことには慣れている。高校生の頃までここで育った。大学へ進んで、四十歳までを東京で暮らし、それからまたここに住んだ。東京を引き揚げてからでも二十年ほど、この周辺に関わっている。どのくらいの数、眼をそらせたくなる光景を見たことか。
最初は、大事件のように思えた。いまは、処理すべきことを、ほとんど自然体で処理している。起きてしまった事件の、来し方行く末には関わらない。境界、死のうと思ってここへ来ます。そのうち五十人は、自然保護監視員などのパトロールに説得されて帰って行きます。命を絶ってしまうのは、五十人前後です。ただし、死体が見つからない人を入れると、何人になるかはわかりません」
源蔵は、正直に答えた。
ここで嘘を言ってはならない。生死の境界線上にいる人の感覚はするどい。嘘だとわかった瞬間から、もう相手は口をきかなくなる。
「どんな人が多いんですか」
「千差万別です」
「動機のわからない人もいるのでしょうか」
「身元のわかる人は、動機もいちおうはわかるようです。身元のわからない人もおおぜいいます」
女性は、ひとつひとつ考えるようにして訊いてきた。
「首をくくるのと、薬を服むのとでは、どちらが多いのでしょう」
源蔵には、女性が、一歩一歩、手順をととのえているように思えた。
「首吊りでしょうな」
源蔵はそう答え、
「道に迷って、餓死する人もいます」
と付け加えた。
「道に迷って?」
「そうです。この森には磁気を帯びた熔岩が多く、磁石のきかない場所が方々にあります。どうやら人間の体内磁石が狂ってしまって、方向感覚を失うのではないかと思われまきましたが」
「それはたしかです。森の浅いところでも、大きな熔岩の陰になっていて、何年も死体が見えないままになっていることもありますから」
モヤは、依然として濃い灰色のまま流れていた。
「ちょっとミステリー」シリーズ、第4巻刊行です。
装画=民野 宏之
装丁=臼井新太郎
内容説明
人間の運命は生まれつきの遺伝子によって決定されている。ならばヒトはどう生きればよいのか?富士山の裾野・青木ヶ原樹海、生と死の狭間を“浮游”する人々。