出版社内容情報
訳
平井肇・昇曙夢・広尾猛・熊沢復六・下永融・八住利雄・中山省三郎・横田瑞穂・能勢陽三・上田進
復刻版解説
青山太郎(九州大学教授)
底本=「ゴオゴリ全集」(全6巻)ナウカ社版
「これはわたしを驚かせた。これは、わたしのペンになる虚構であることにプーシキンは気づかなかったのだ!」
本邦初の全編ロシア語原典からの翻訳作品集で、訳者には当時気鋭のロシア文学者が名を連ねている。
内容
1.ディカーニカ近郷夜話
2.ミルゴーロド
3.戯曲集
4.短編小説集
5.死せる魂Ⅰ
6.死せる魂Ⅱ
ゴーゴリ邦訳の里程標
青山太郎(九州大学教授)
ゴーゴリ作品のロシア語原文からの訳は、明治三十年の長谷川二葉亭による『肖像画』をもって嚆矢とするが、それ以前にも徳冨蘆花が『タラス・ブーリバ』を『老武者』と題して英訳から翻案している。
全集は、昭和九年のナウカ社版を皮切りに、戦中一回、戦後二回出ている。
此度復刻されるナウカ社版の『ゴオゴリ全集』は、本邦初の全篇ロシア語原典からの翻訳作品集で、訳者には当時気鋭のロシア文学者が名を連ねている。歴史的資料として、我国におけるゴーゴリ受容の重要な里程標であると同時に、訳文においても、こんにちではもはや不可能となった名訳が多い。
なかでも貴重なのは、平井肇による『ディカーニカ近郷夜話』と『ミルゴーロド』の訳で、とりわけ後者は、こんにちおそらくこの全集でしか読むことが叶わない。
ゴーゴリの臭味のある文体には、幾分古風な文章がよく似合うのである。
ゴーゴリ●点描
●1809年
3月20日(ロシア暦4月1日)、ソロチンツイ市に生まれる。
●1828年(19歳)
ネージンのギムナジウム(高等中学校)卒業。
●1829年(20歳)
6月、長詩『ガンツ・キユヘリガルテン』を自費出版。
7月、同書の残部を焼く。
11月、内務省に勤める。
30年、宮内省に移る。
また美術アカデミーに学ぶ。
●1831年(22歳)
1月、『文学新聞』に発表した小品「女性」で初めて「H・ゴーゴリ」と署名。
3月、愛国女学院の教員となる。
5月、プーシキンを識る。
9月、『デイカ二カ近郷夜話』第一部を出版、名声を博す。
●1832年(23歳)
3月、『ディカニカ近郷夜話』第二部出版。
●1834年(25歳)
7月、ペテルブルク大学世界史担当助教授となる。
●1835年(26歳)
1月、『アラベスキ』(2巻)出版。
3月、『ミルゴロト』(2巻)出版。
愛国女学院罷免となる。
12月、『検察官』成る。
12月末、ペテルブルク大学退職。
●1836年(27歳)
4月、ペテルブルクで『検察官』初演、ついで5月、モスクワで初演。
●1837年(28歳)
2月、プーシキンの死を知る(没1・29)。
●1838年(29歳)
1月~6月、ローマで年来の『死せる魂』の稿を続ける。
●1841年(32歳)
6月、『死せる魂』の第6章までゴーゴリの口述で清書、8月第一部の稿成る。
12月、同書はモスクワ検閲委員会に出版を禁止される。
●1842年(33歳)
ペテルブルク検閲委員会『死せる魂』の出版許可、5月、第一部出版。
●1843年(34歳)
2月、ペテルブルクで『作品集』(4巻)出版。
●1845年(36歳)
7月頃『死せる魂』第二部の草稿を焼く。
6月~9月、病気治療のため医者を転々とする。
●1846年(37歳)
5月~11月、ヨーロッパの各地で『友人との往復書簡』を書き継ぐ。
8月~9月、オスデンで療養。
10月、『死せる魂』第一部第2版(序文つき)出版。
●1847年(38歳)
1月、『友人との往復書簡選』出版。
6月~ 7月、『作者の告白』成る。
●1851年(42歳)
10月、『作品集』第二版の出版許可がおりる。
●1852年(43歳)
2月11~12日、『死せる魂』第二部の草稿を焼く。
2月25日病没。