ワイルド全集

ワイルド全集

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  • サイズ A5判/ページ数 5冊/高さ 22cm
  • 商品コード 9784820594239
  • NDC分類 938
  • Cコード C0397

出版社内容情報

胸に向日葵の花を飾ったアイルランドの伊達詩人は、「サロメ」によって怪奇と幻想、デカダンスの美を地上に咲かせた。
 

本間久雄・矢口達・秋田雨雀・中村吉蔵・楠山正雄・島村民蔵・坪内士行・谷崎精二・河竹繁俊・小山内薫・矢口達・日夏耿之介・神近市子
底本
「ワイルド全集」(全5巻)
復刻版解説
荒井良雄

内容
1.小説
2.戯曲集
3.戯曲及童話集
4.詩集
5.論文集

ワイルド再評価の気運
井村君江
(明星大学教授)
オスカー・ワイルドの戯曲『理想の夫』の初演百周年にあたる今年1995年1月3日、ロンドンの王立ヘイマーケット劇場の楽屋入り口に、これを記念するプラークが掛かった。
また『真面目が肝心』が上演されて百年後の2月14日には、ウエストミンスター・アべイの詩人コーナー西側の窓のステンドグラスに、〈Oscar Wilde 1854-1900〉と名前が入った。
これらは没後95年にしてやっとイギリスで、ワイルドに対するヴイクトリア・モラルの壁と偏見が消えたことを象徴的に語る出来事であり、今世紀末にワイルド作品再評価の時が来たことを示している。こうした時に、天佑社発行の『ワイルド全集』の復刻は、たいへん意義がある。
 大正9年に出たこの翻訳集は、我が国に初めてワイルド作品の全貌を示したものであった。
(一)小説集、(二)戯曲集、(三)戯曲及童話集、(四)詩集、(五)論文集
の五巻に各ジャンルの主な作品を、「雑纂」に「女の着装」など随想や数通の書簡を収録するというように、監修者矢口達はワイルドの全作品に目を配っている。
学者の本間久雄がワイルドの生涯を書き批評を訳し、舞台で実際に上演した中村吉蔵の『サロメ』の台本、演出家の楠山正雄や河竹繁俊、小山内薫、坪内士行が上演した戯曲『理想の夫』『真面目なる事の必要』(小説家谷崎精二訳)等、牢獄を経験した神近市子の『獄中記』、詩人の秋田雨雀の小説の訳、日夏耿之介の全詩作品の訳など、当時各分野で活躍していた12人の翻訳作品集でもある。
「ワイルドの唯美主義に多大の興味を感ずる所以の大部分は、この主義が近代文芸に於ける大なる流派の一つである所謂[芸術の為の芸術主義]の中堅をなす点にある」と刊行の言葉にあるが、大正時代に新しい思想と表現の芸術を目ざした作家たち、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫などへのワイルド文学の影響は大きく、この全集に収録された翻訳を読み、舞台を見た経験に基づくものが多い。
またこの全集は昭和時代の作家や学者達の研究の底本でもあり、我が国のワイルド移入史を考察するとき、そして現代作家とその文学を考える上でも、欠かせない重要な翻訳集である。

オスカー・ワイルド 点描
1854年10月16日、英国ダブリンに生まれる。
Oscar Fingal O’Flahartie Wills Wildeと命名された。
1871年10月、ダブリンのトリニティー・カレッジに入学、1874年10月、オクスフォード大学入学、1879年同大学卒業。
その間、北イタリア(1875年)、ギリシア(1977年)に旅行、また、詩 Ravennaでニューディゲイト賞(1887年)を受ける。
1881年、ロンドンでワイルドの所業を嘲笑した軽喜劇が上演された。
7月、処女詩集、"Poems"出版。12月、渡米、翌1882年12月まで各地を講演旅行。
W・ホイットマンに会っている。
1883年、パリに赴く。自作のVera上演(8月)のため再び渡米。
1884年M.C.Lloyaと結婚。
1885年~1895年、詩・小説・童話等多くを発表。
1893年2月、"Salome"仏語版をパリで出版。
翌年2月、A・ダグラス訳の英語版をO・ビアズレーの挿絵入りのものをロンドンから出版。
その他詩・劇作、"Lady Windermere's Fan"ほかを発表、相次いで上演されその多くは世評を呼んだ。
1894年、サロメの英訳者A・ダグラスの父クィーンズベリ侯爵との紛争が始まる。
稀代の美青年ダグラス(ボジー)とワイルドとのSodomyに因るという。
1895年ダグラスと共にアルジェールを旅行。
この旅でA・ジイドに会っている。
1895年2月、クィーンズベリ侯爵からワイルド宛のInsulting Cardを受け取る。
このカードがワイルドを傷つけ、4月3日、ワイルドは同侯爵を告発するが敗訴、逮捕され、一度保釈で出獄するが5月25日懲役2年の判決を受ける。獄中で"De Profundis"(深き底より‥獄中記)を書く。
1896年5月出獄。
英国にその身を置く所を得ず北フランスの寒村ディエプに移る。
ここでは仮名で暮らす。
1897年の秋、ダグラスと再会するが間もなく別れる。
1898年3月、妻没。
1900年、スイス、イタリアを旅行。
10月、発病、11月30日、パリの安下宿の一室で病没。
享年45歳。
友人・R・ロスほかの奔走でパリ郊外の墓地に葬られた。

「墓碑銘」より
Verbis meis addere nihil audebant et
super illos stillabat eloquium meum
わが言いし後は、彼ら言葉を出さず、
わが説くところは、彼らに甘露のごとく
(平井博訳)

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