バイロン全集

バイロン全集

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  • サイズ A5判/ページ数 5冊/高さ 22cm
  • 商品コード 9784820593324
  • NDC分類 938
  • Cコード C0397

出版社内容情報


坪山津多
解説
剣持武彦

気鋭の英文学者の訳による唯一の邦訳『バイロン全集』。
バイロンの主要作品、長詩・短詩・劇詩などの叙事詩・抒情詩および書簡等を集成する。
底本:那須書房版(昭和11年4月~8月)

《内容》(括弧内は訳者)
1.叙事詩戯曲篇
マンフレッド(岡本成蹊)/海賊(岡本成蹊)/シヨンの囚人(岡本成蹊)他
2.叙事詩世界歴程篇
チャイルド・ハロルド世界歴程 第1巻(岡本成蹊)第4巻(小林史郎)/ベツポー(山本政喜)/アビドスの花嫁(山本政喜)/訳者のことば〔解説〕
3.叙事詩世界歴程篇
チャイルド・ハロルド世界歴程 第2巻・第3巻(岡本成蹊)/コリントの攻囲(丸川仁夫)/ドン・ファン前編(岡本成蹊)/バイロン研究Ⅰ(日夏耿之介)/訳者の言葉〔解説〕
4.抒情詩戯曲篇
抒情詩抄 上(熊田精華)/マゼツパ(清水潔)/サルダナパラス(上田昇)/ナポレオン頌歌(鈴木賢治)/バイロン研究Ⅱ(日夏耿之介)/訳者の言葉〔解説〕
5.書簡 評伝 抒情詩篇
書簡集(岡本隆)/バイロン評伝(田代多志)/ダンテの予言(鈴木賢治)/タツソー哀歌(丸川仁夫)/ドンファン後篇(岡本成蹊)/抒情詩抄 下(熊田精華)/バイロン研究Ⅲ(日夏耿之介)/訳者の言葉〔解説〕/解説=剣持武彦

推薦のことば
あの青春の贅沢をいま一度
川口喬一(目白大学教授)
大学の寮に入って最初に覚えた歌に「嗚呼吾れダンテの鬼才なく、バイロン・ハイネの熱なくも………」というのがあった。そう、バイロンはあの頃の、燃えたぎる青春の、一つの象徴なのであった。
放逸無頼の男爵の家柄に生まれ、異母姉を含む多数の女性と情熱的な関係を結び、社会的反逆のジェスチャーとしてギリシャ独立戦争に参加、その壮途半ばにして異国の地に客死―こうした波瀾万丈の生涯は勿論のこと、彼が書き残した多様な作品もまた、青春の文学そのものであった。
『チヤイルド・ハロルド』における衝撃的なバイロン的英雄像の定位、『マンフレッド』におけるファウスト的超人志向、ついに未完に終わった『ドン・ジュアン』、いずれも若者の胸に熱き想いを駆り立てずにはいない。
 かつてわが国の近代文学の青年期に圧倒的な支持を受けたバイロン、その青春の贅沢をいまここにもう一度味わえる。
いまから楽しみである。

すばらしい『バイロン全集』
―復刻は近代文学研究にとって快挙
平岡敏夫(群馬県立女子大学教授)
『バイロン全集』全五巻(昭11、那須書房)を入手したのは昭和三十二年のことで、それを記憶しているのは修士論文の北村透谷研究に必要だったからであり、昭和三十三年春、修士課程を出た後も、この四六変型判、ワインカラーの布クロス、貼函にはバイロンの肖像が鮮かな全集は、私の愛蔵書となった。
各巻、タイトルと紋章が金で刻印された表紙を開くと口絵写真がまず興味深いものだが、訳文がまことに流麗で、岡本成蹊訳の『マンフレッド』『シヨンの囚人』はとくに忘れられない。
本国のロマン主義評価・バイロン評価の動向はさておき、本質的にはロマン主義にほかならぬ日本近代文学研究のためにも、『バイロン全集』復刻は快挙と言うべきである。

バイロン〔略〕年譜
・1788年
一月二二日、ロンドンのホリス街に生まれる。
父ジョン・バイロンは男爵(五代当主)。
・1790年(2歳)
母と共にスコットランドのアバティーンに移る。
・1791年(3歳)
八月、父がフランス放浪中に客死。
・1792年(4歳)
ボーワーズ氏の学校に学ぶ。
*八月、シェリー生。
・1794年(6歳)
この年、グラマー・スクール入学。
・1795年(7歳)
*10月31日、ジョン・キーツ生まれる。
・1796年(8歳)
母と共にハイランドのバラターに移る。
この頃、従妹メリー・ダフに思慕の念を抱く。
・1798年(10歳)
5月15日、大伯父死去カーライルが後見人となる。
バイロンは遺言により貴族となり、僧院の所有者となる。
秋、母と共にニューステツドに移り、のちナッチンガムに転居。
・1799年(11歳)
母と共にロンドンに移る。
グレニー氏の学校に学ぶ。
・1800年(12歳)
従姉マーガレットを愛し、恋愛詩を作る。
・1801年(13歳)
ハロー学校に入学。
・1803年(15歳)
二歳年上のメリ・アン・チャワースに思いを寄せる。
・1805年(17歳)
8月、チャワースが結婚したことを知る。
10月、ケンブリッジ(トリニティ・カレッジ)に入学。
1806年(18歳)
11月、『即興詩』(私家版)を出す。
・1807年(19歳)
1月、『折々の詩』を百部出す(私家版)。
3月、『閑日月』を発行。
・1808年(20歳)
ケンブリッジ大学卒業。
・1809年(21歳)
3月、貴族院。
同月、『英国詩人とスコットランドの評論家』を発行。
7月2日、友人ホブハウスと共にヨーロッパ大陸の旅に出てアルバニア、トルコ、ギリシアの各地に遊ぶ(ホッブハウスは途中で帰国)。
10月、『チャイルド・ハロルド世界歴程』を書き始める。
・1811年(23歳)
2年余の外国暮らしを終え、7月15日、ロンドンに帰る。
8月1日、母死去。
この年の暮れ頃よりトマス・ムーア(のち、バイロンの伝記を書く)と相識る。
・1812年(24歳)
2月、上院で演説。
同29日『チャイルド・ハロルド』(Ⅰ・Ⅱ)、を出版、文名をあげる。
また『ミネルヴァの呪咀』を書く。
3月、クロライン夫人を知り、関係を持つ。
秋、ロンドンに移る。
・1813年(25歳)
4月、『ワルツ』(無署名)を、5月『邪教徒』、
12月『アビドスの花嫁』を出版。
・1814年(26歳)
1月、『海賊』を出版。
4月、『ナポレオン頌歌』を書く。
8月、『ララ物語』を出版。
・1815年(27歳)
1月2日、ミルバンクと結婚。
同月、『ヘブライ佳調』を出版。
4月、スコットを知る。
11月、経済的に行きづまり図書を売却。
12月、長女生まれる。
・1816年(28歳)
1月15日、ミルバンクと離婚。
同月、『コリント攻園』、二月『パリシナ』を出版。
3月、「スケッチ」「告別」を書く。
4月25日、再びヨーロッパ大陸の旅に出る。
5月25日、ジュネーブに着き、当分滞在する。
この地でシェリーと相識り、妹のクレアモントと恋仲になる。
10月、イタリアのヴェニスに着く。
ここではセガチ夫人と関係を持つ。
・1817年(29歳)
1月12日、クレアモントとの間に一子(アレグラ)生まれる。
2月、『マンフレッド』成る。
4月、フェラ、六月、ベネツィアに赴き居を構える。
4月、フェラで『タッソーの哀歌』を書
・1818年(30歳)
9月、『ドン・ジュアン』を書きはじめる。
クグニ夫人と関係をもつ。
・1819年(31歳)
1月、『ドン・ジュアン』Ⅰを、12月Ⅱ・Ⅲその他を書く。
4月、テリザと親しくなる。
12月、ラヴェンナに移る。
・1820年(32歳)
1月、ギッチョリ夫人テリザと同居。
『モーガンテ・マッジョーレ』を訳す(23年出版)3月、『ダンテの予言』を書き(21年発表)、その他を訳す。
7月、『マリノ・ファリエーロー』(21年出版)、11月、『ドン・ジュアン』V成る。
・1821年(33歳)
2月23日、キーツ没。
5月、『サーダナパラス』、7月、『二人のフォスカリ』を書く。
8月7日、シェリーに会い、ハントを招き文芸雑誌『自由』創刊を図る(22年創刊)。
9月『ケイン』、10月『天と地』『審判の幻像』を書く。
11月、テリザと共にピザに移る。
・1822年(34歳)
1月、『ウェルナー』を書き、7月、『ドン・ジュアン』Ⅵ・Ⅶ・Ⅷ、『変形の不具者』などを書く。
7月8日、シェリー死去。
9月、ゼノアに移り、『ドン・ジュアン』を書き続ける。
・1823年(35歳)
1月、『青銅時代』を書く。
2月、『島』を書く。
3月、『征代』を書き始める。
7月23日、ギリシアの独立軍に加わるため出発。
・1824年(36歳)
1月5日、ミソロンギに着く。
『余が三六年』を書く。
この年ギリシァ独立軍の総督に任ぜらる。
4月19日午前6時、疾病により没し、7月16日、故国に葬られる。

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