出版社内容情報
・「本書によれば、映画や電話に始まり、いまのインターネットに至る、現代型のメディアが、これを「リアル」と強く感じさせる空間を創りだした。そこで情報と人とは、両者が初めからたがいに絡みあう、独自のあり方を示している。」(2005.2.6 読売新聞 苅部直氏評)
内容説明
ケータイを持ったハイデガー。ハイデガーの“現存在”をめぐる難解な思考を現実の体験にしたメディアの進歩。最新のメディア体験を読み解きながら、現象学がめざしているものを明らかにする、俊英の瞠目すべき論考。
目次
第1章 現象学的還元からメディア利用者の“不安”へ(“後ずさり”;メディア現象学;“現存在”とその“存在論的”“不安”;“主体”から“現存在”へ)
第2章 “現存在”としてのメディア利用者、“頽落”の引力としての“不活性”(“現存在”としてのメディア利用者;メディア技術のポテンシャルの人間化から脱人間化へ;“現‐存在”から“速度‐存在”へ)
第3章 “表象”の近代から“現前”の現代へ(“表象すること”とギリシア人;“対象”と“モノ”;“対象”としてのまなざしの“現前”;身体残像、あるいは残像身体)
第4章 存在の露現としての“立て組み”
著者等紹介
和田伸一郎[ワダシンイチロウ]
1969年、兵庫県神戸市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。京都大学博士(人間・環境学)。専攻はメディア論、哲学
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感想・レビュー
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Ecriture
10
明朗かつ明晰な筆致でグイグイと読ませる。著者は体系的に文献を読む行為に長けており、依拠するハイデガー存在論に対するデリダ、レヴィナス、バディウからの批判を包摂してその上や裏を抜いていくような知勇を備えている。フッサールの<超越論的意識>が「残余」であり、ハイデガーの<<存在>>は「原初」であるといった議論の前提部の整理もさることながら(私見ではマクルーハンとヴィリリオの間にも同様の整理が必要だが)、ラカンのまなざしの議論やバルトの写真論も著者に引き寄せられることで新たなポテンシャルを開示している。2010/03/17
大ふへん者
6
返却期限ギリギリになってしまい熟読出来なく残念。購入してリベンジしたい。ヴァーチャルリアリティにおける身体は「今、ここ」にある身体からの乖離によって不安の根源となる。私自身が写真を撮られるのが好きでない理由も合点いった。SF的には人間は仮想身体にすら適応していくのかも知れないが、そんな近未来には生理的な嫌悪感がある。抵抗拠点としての思考を持ちたい。2014/12/18
Mealla0v0
5
再読。メディア利用の経験論を存在論的に解き明かす本書は、ハイデガーにヴィリリオを接続することで、さらには精神分析の概念を存在論に織り込むことで、広範な射程を獲得している。遠隔存在の現前によって、むしろ身体の方が仮想化され、そこに発生する残余が不安を覚える。しかもそのようなメディア利用はゲシュテル=知覚の兵站術によって配置されたものである。こうした指摘は、非常に興味深い。昨今のVR技術の発達を考える上でも、本書の指摘は有意義だろう。2018/07/05
センケイ (線形)
3
メディアこそ未来へ可能性を開くのではと考えていた私には、嬉しい一冊。2004年時点でVRの役割を取り扱う慧眼に満ちている。前半において、遠くのどこかが結果としての自分、〈現存在〉をはぎ取るというところに希望を抱いたが、しかしそれがすぐさま《存在》を気遣う生き方になるかというと、事は単純でもないらしい。結果としてみれば具体的な解決策が明示されるわけではない。しかしそれでも、過度に人間化しすぎない技術利用や、主体をぎりぎりまで追いやるというメタな策に可能性が感じられる。議論に終始興奮できる一冊だ。2019/03/29
Mealla0v0
2
メディア技術を唯物論の観点から、すなわちハイデガー=ヴィリリオの哲学から論じた書。「技術の本質(ポテンシャル)」とはなにか。そこにある〈不安〉を論じる。人間に飼い慣らされない技術は、遠さ=差異を忘却させ、絶対速度のなかで、それがまったく制御されないなかで、不活性の極みに「退屈」の「頽落」を見ることになる。ゆえに、技術を人間化する機制を解体しなくてはならない。それは取りも直さず、人間の解体を意味する。本書はヴィリリオの思想入門書としても有意であり、非常におもしろかった。2017/08/23