内容説明
大阪府南部・和泉市の丘陵上に、弥生時代の大規模集落がみつかった。二重の環壕にかこまれたムラは、「魏志倭人伝」など中国史書に記された「倭国乱」と結びつけられ、軍事的・防御的集落とされた。はたしてその実態は?考古学的調査研究からその実像に迫る。
目次
第1章 あらわれた大規模弥生ムラ(膨大な遺物整理をまかされ;ニュータウン開発で全面発掘;あらわれた大規模な弥生ムラ)
第2章 「倭国乱」とのかかわり(高地性集落、軍事施設説;多様化する高地性集落論;変わる弥生時代の暦年代)
第3章 山住みムラの実態(遺物からみたムラの実態;どの時期のムラなのか;ムラの構造の特徴;高地性集落論と観音寺山ムラ)
第4章 変わる弥生社会像(弥生都市論と大規模集落;小地域社会の動向)
第5章 高地性集落の実像(東アジア全体の「戦い」;高地性集落の実像;遺跡から社会を考える)
著者等紹介
若林邦彦[ワカバヤシクニヒコ]
1967年、大阪府生まれ。同志社大学大学院文学研究科博士課程前期修了。現在、同志社大学歴史資料館准教授。専門、弥生時代、土器・集落(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
1 ~ 1件/全1件
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。
take5
2
2世紀後半の「倭国乱」と大阪にある高地性集落の観音寺山遺跡との関連の考察が主なテーマ。この遺跡は弥生後期前葉(1世紀半ば)に高地性環濠集落として形成され、その後すぐに環濠は埋められたらしいが、集落自体は後期中葉、後葉と続いたようです(ただし住居数はかなり減少したらしい)。つまり、その環濠は倭国大乱とは関係がないということのようです(ちなみに近くの池上曽根遺跡からの集団移住も考えられないとのこと)。1世紀半ば(57年の奴国王の後漢への朝貢前後)には、少なくともこの辺りには社会的緊張状態があったということか?2018/01/31




