内容説明
弔いとはいったい何なのか―。遺影・慰霊碑・墓・短歌などの弔う文化をあげて、子どもの死や戦死者、靖国、亡霊、東日本大震災などの死者と生者のありように肉薄し、弔いが死者を思い供養することにとどまらず、死者・遺族・弔問者という三者を結び付け、関係性を創造する契機になることを浮き彫りにする。
目次
序章 弔い論へ向けて―誰が死者を弔うか
第1章 幼子の死と弔い―子どもの近代と生死の諸相から
第2章 戦死者の霊と弔い―折口信夫の弔いの作法から
第3章 戦死者の亡霊譚と弔いの視座
第4章 亡霊と生き残り、そして未完の弔いへ
終章 亡霊と弔い、そして和解、もしくは逡巡
著者等紹介
川村邦光[カワムラクニミツ]
1950年、福島県生まれ。大阪大学大学院文学研究科教授。専攻は宗教学、近代文化史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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佐倉
13
弔問にやってくる客、彼方から訪れる死者。弔いとは訪いでもあり、訪れるモノを喪主が歓待する(受け容れる)ことで弔いは成功する。思い出、絶望、後ろめたさ…そうしたものを受け容れることが出来れば弔いはなるが、それを直視出来ない時、死者は亡霊となって襲いくる。1章は子供を亡くした人々、2章以降は戦死者についての反応を取り上げ、近代日本の国民には“死”に何らかの意味を見出そうとする風潮があったことを指摘する。宗教的な試練、国家の発展、進化の礎…”美しい意味“は訪れるモノを覆い隠し、そこに生まれる歪みが亡霊を呼ぶ。2024/11/23
まさきち
5
大学の課題で読む。故人と遺族、弔問者の個人的な気持ちの関わりは〈弔い〉、〈悼み〉。それに対して靖国神社の英霊祭祀は対極的。ホトケになるか神になるか、分骨の可否、植民地出身者など、残された者の感情を思う時、一斉に了解も無く合祀、もしくは国のためを思って死んでも逆賊とされた人は祀られないなどというのはやはりあまりに乱暴だ。花嫁人形や口寄せ、八甲田行軍の亡霊など民俗学の視点ならではの死者と生者の思いの行き来を読めた。2018/02/01
いまにえる
1
葬式や伝承などについて書かれた書。思ったより民俗学的であった。戦死者はその数の「多さ」を強調されて死の個別性を剥奪され、また、無名戦士として祀られることで極めて抽象化された人間になっている。それが死者への冒涜だというようなことを言っていてなるほどなと思った。遺影のポリティクスについても興味深いと思った。その遺影がいつ頃取られたか、どんな表情をしているかでその死者について語られる物語は全く異なるだろうということは、当たり前かもしれないが私にとっては盲点だった。2018/01/27
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