- ホーム
- > 和書
- > 文庫
- > 学術・教養
- > 学術・教養文庫その他
目次
富岡鉄斎(旅行記;随筆/画論;漢詩;和歌)
大田垣蓮月(和歌;消息)
著者等紹介
富岡鉄斎[トミオカテッサイ]
天保7年、京都に生れる。早く大国隆正に国学を学び、また梅田雲浜の講筵にも列し、勤皇思想を体して奔命するうちに明治維新を迎えたときは三十歳の余で、その後は敬神愛国の念から、旧蹟、名所の復興に尽力する一方、明治7年に北海道を訪れたのをはじめ、諸方に旅したのは、万巻の書を読み、万里の道を行くという文人の処生をそのまま示すものであった。蓮月尼の心性寺の居にあった二十歳前後から画を始め、京都に定住するようになった四十歳代から専心し、殆ど独学で会得した描法による水墨画風の作品は、晩年に至るほどに豊饒さを加えたが、画業は余技にすぎず、本分はあくまで学者にあると観じた。大正13年、数えで八十九歳を似て歿
大田垣蓮月[オオタガキレンゲツ]
寛政3年、京都に生れる。十歳にならない時分から丹波亀山城主の松平家に仕えて武芸にも通じ、国学を上田秋成に学んだが、六人部是香の門に入った歌道を以てよく知られ、平明で温雅な調べの作品は、幕末の京都歌壇を女流において代表した。夫、子供と死別し、三十歳を過ぎて剃髪した後は、洛東の周辺に居所を何度か移しながら、歌を教える傍、自詠を彫りこんだ茶碗などの陶器を制作し、蓮月焼と称されたこれを頒って米塩の資とする生活を送る間、橘曙覧、梁川星巌、また多くの勤皇の志士たちと交るが、なかに富岡鉄斎があり、北白川の心性寺に住したときは起居を共にして、若き日の鉄斎を訓育した。明治8年に八十五歳で歿(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。