内容説明
『数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集』で鮮烈に登場した詩人の、いまを生きる作品群。今日の悲歌がまっすぐに立ちあがる。
目次
詩集「数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集」全篇
詩集「御世の戦示の木の下で」から
未刊詩篇
散文
作品論・詩人論
往復書簡=稲川方人・中尾太一
著者等紹介
中尾太一[ナカオタイチ]
1978年、鳥取で生まれる。18歳のころ、伊藤比呂美らの詩に触れ、実作を始める。20代前半は荻窪を中心に詩の朗読活動を盛んに行う。また、22歳ごろから人形劇、影絵の仕事に10年ほど従事し、日本国内外を巡演する。2006年、思潮社50周年記念現代詩新人賞受賞。日本大学芸術学部中退(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ノブヲ
23
テロルの快感とでもいえばいいのか、言葉はいつも無差別で、時々調子外れに、時にテンションを上げながら全体にのらりくらりと紡がれていく。ある速度感をもって無辺に言葉を重ねていく過程で不意に決定的な一行に出逢うということがまれに起こる。「肺を病んだ黒巡りのキャラバンはふたつめの地平に幾人かの死体を安置している」とかね。どこかに対比の構図や意図した構成を探してみてもみつけるのは難しく、従って全体の統一性など求めるのも間違っている。現代詩は謂わば「意味」との格闘であり、「無意味」はその最もポピュラーな手段でもある。2025/03/10
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8
「作者が長い行の維持を放棄し、統御を緩めることによって生み出される(……)短い行の後に残される空白は、作者にとっての「忍耐が途切れるほどの優しい一日」であり、読者が「冷たい返信」もしくは「こころの炎、その顛末」を記入するためのスペースである。(……)すなわち、最も強い詩とは断言し続ける詩ではなく、自らの断言を同時に贖い、掻き消し、「君」の許しを、「君」の反論の書き込みを乞う空白を保持する詩、もしくは、それら許しと反論の欠如を示すものとしての空白も同時に書き込む勇気を湛えた詩である、ということである」2017/12/07
kentaro mori
3
⚫︎東京、幾つの未決を越えているか、首都高速道路、東名自動車道路、名神自動車道路、中国自動車道路、国道二九号線、たいてい朝方に着くから夜は町の光は見えない東京、深夜、白いTシャツを着て表看板だけを頼りに歩いている子供の集団を、ぼくは眺めていて、向うに野球場のボールと見まがうばかりの巨大な焼却炉が見えた/東京、傷は若さを止める、そして止揚されない、幾千にも枝分かれしていった局地へは赴かないが、幻影がそこにいる、それを壊しにいこうか、という餓鬼、ノマド、ルビコン、跨線橋、バチルス、エトセトラ/東京、光なしで2024/08/16
寛理
3
この本に収められている評論、白鳥央堂「「星の家から」小論」は本当にすばらしい。2021/05/05
刻青
2
言葉が詩になるとき、それは、必然的に内的な深いものに耳を澄ます行為になり、それが深くなればなるほど、伝わることから離れていく。しかし、この詩集に書かれる「君」、いくつかの固有名詞、「僕」は、確実にある地点に存在していたことがわかる。伝えよう、という思いが痛いほどに伝わる。深い、痛みだけがあって、眼を逸らさず、伝えるあてもないままにその痛みを伝え続けようとする。それがある瞬間尋常ではないきらめきになっている。深い叫びが燃え尽きながら疾走する。そのとき詩人はどれほどの火に、どれほどの光に曝されているのだろう。2022/09/25