内容説明
明治37~38年、日露戦争の勝利の陰で、ロシア人捕虜72,000人が全国29ヵ所の収容所に溢れた。列島を移動する捕虜(外国人)と初めて接触した民衆の異文化体験の反応と交流の姿。脱走事件や郭通い、自由散歩や捕虜祭りなど、収容所をめぐる各地の姿を描く。
目次
序章 検疫所、似島を訪ねて
第1章 国際舞台を意識して―捕虜対策
第2章 捕虜がやってきた―最初の収容所・松山
第3章 なだれ込む捕虜―軋轢と“交流”と
第4章 開戦当初から決まっていた丸亀・善通寺
第5章 汽車輸送の始まり―姫路・福知山
第6章 “将軍の館”―名古屋、静岡そして豊橋
第7章 旅順開城への緊急対応策―堺浜寺、大阪、大津、京都
第8章 増える捕虜―山口、福岡、小倉、久留米、熊本
第9章 とまどう城下町―金沢、敦賀、鯖江
第10章 箱根を越えた捕虜たち―習志野、佐倉、高崎
第11章 奥羽列藩同盟の地にも―仙台、弘前、秋田、山形
第12章 「収容所」ではなけれど―長崎・稲佐
終章 捕虜送還―七万二〇〇〇名の遺したもの
著者等紹介
大熊秀治[オオクマヒデジ]
1932年、東京都出身。東京外国語大学卒業。東京新聞に入社、ニューデリー、モスクワ特派員、論説委員などを歴任。日本記者クラブ会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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Nobuko Hashimoto
19
日露戦争でのロシア兵捕虜は7万人、全国29か所に分散して収容された。捕虜に対する人道的処遇を定めたハーグ条約のもと、驚くほど厚遇である。初めに開設され、全国のモデルとなった松山だけではなく、ほぼどの収容所もそうであった。日本が戦場にならなかったからか、地元民も、敵愾心よりも物見高さの方が勝ったようで、どこでも見物人の黒だかりだったそう。特需を狙った誘致もあったとか。実際、落ちるお金は大きかったよう。タイトルは若干怪しげだが、当時の資(史)料や先行研究をひもとき、各地を足で回って編んだ歴史ものである。2019/06/05