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内容説明
ときは19世紀半ば、ところはクイーンズランド開拓の最前線。荒削りな自然の猛威にさらされ、人びとが身を寄せあって暮らす辺鄙な町に、アボリジニに育てられた白人の男、ジェミーが現れた。言葉をとりもどし、ヨーロッパの側に帰ろうとするジェミーを、人びとは戸惑いつつも受け入れる。しかし彼の存在は、平穏だった町にやがて大きな亀裂を生みだしていく。1993年度ニューサウスウェールズ州首相賞受賞作。
著者等紹介
マルーフ,デイヴィッド[マルーフ,デイヴィッド][Malouf,David]
1934年、クイーンズランド州ブリスベン生まれ。クイーンズランド大学で学び、卒業後に同大学にて2年間、教鞭を執る。24歳でオーストラリアを離れイギリスに滞在、ロンドンとバーケンヘッドで教職に就く。1968年に帰国後、77年までシドニー大学で英文学講師。現在は専業作家として、オーストラリアとイタリア南トスカナで暮らす。『想像上の人生An Imaginary Life』(1978)で1979年度ニューサウスウェールズ州首相賞、『異境Remembering Babylon』(1993)で1993年度の同賞を受賞するなど、国内の重要な文学賞を多数獲得
武舎るみ[ムシャルミ]
1958年、東京に生まれる。学習院大学文学部英米文学科卒。現在、マーリンアームズ株式会社取締役、翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
まふ
110
19世紀半ばのオーストラリア、クイーンズランドの開拓村。アングロ・ケルティックの人々が中心の世界に「クロンボ」であるアボリジニに育てられた白人ジェミーを拾って家族とするマッキバー一家を中心に物語は進む。1970年代にアボリジニの人権が認められたわけだが、その100年前の話であり、偏見と嫌がらせの渦巻く村社会で一家は苦しむ。数十年後に修道女となった一家の娘と下院議員になった甥が当時を語り合う…。オーストラリアの人々が原住民をいかに処してきたかがリアルな緊迫感をもって理解できる好著。G630/1000。2024/10/14
NAO
54
開拓民にとってオーストラリアは異境であり、開拓村の「あちら側」は先住民が住むさらなる異境である。そんなただでさえ安定を欠く村に自分たちとは異質なものが紛れ込んできたとき、村人の不安は暴発寸前となり、孤独や焦燥を浮き彫りにし、村の中に対立を生む。そして、その「異物」であるジェミーも、実はイギリス人孤児で、彼にとってはどこもかしこもが異境だという、足場を持たない人物なのだ。クッツェーの『夷狄を待ちながら』ほどではないながら、そこはかとない恐怖がじわりと湧き上がってくるような話だった。2016/07/16
ヘラジカ
26
未開の地で土着民に育てられた青年と、それを受け入れようとする開拓民を描いた作品。という粗筋だけを見ると確かに解説で言われている通り「使い古されたテーマ」という感じがする。だが実際は、開拓者の抱える孤独や不安を通して、オーストラリアやアボリジニの性質を明快に書き表している稀有な作品だ。社会が植え付けた勘違いの「身分」という価値観が如何に醜いかを描く一方、入植者である村人それぞれの複雑な心理描写等も、簡潔ながら巧みに纏め上げている。2016/03/09
鷹図
16
オーストラリア先住民に育てられた白人の少年ジェミーが、白人たちの開拓者村に迷い込む。先住民との長い生活により、白人でありながらアボリジニの特徴や所作を有すジェミー。無害なのは分かっているものの、どうしても気を許せないでいる村人たち。19世紀のオーストラリアにも存在する、村社会や世間体。村の若者の吐いた嘘が、悪意と猜疑によって「事実」に加工される恐ろしさ…。結末は決してハッピーエンドではないが、文化や人種という境界線をいかに越えるかというテーマが、モチーフを替えて繰り返し語られるところに、本書の希望はある。2012/04/02
ophiuchi
5
先住民族と開拓者(前者から見れば侵略者だろう)の関係が、歴史の浅いオーストラリアではどうだったのかが、アボリジニの中で成長した少年を触媒として語られている。シドニーオリンピックの開会式の光景も頭に浮かんできた。2012/05/26