出版社内容情報
今日のフランス現代思想の基礎を築いた画期的なヘーゲル解釈。バタイユ、ラカン、メルロー=ポンティ、サルトルなども出席した講義録であるとともに、コジェーヴ自身の壮大な歴史哲学をも展開し、現代のポストモダン思想にも影響を与えた。
目次
出版者の覚書
第一章 序に代えて
第二章 『精神現象学』の最初の六章の要約――一九三七‐一九三八年度、最初の三回の講義の全記録
第三章 『精神現勢学』第七章の一般的導入部(四七三-四八○頁)の解釈――一九三七‐一九三八年度、第四回及び第五回講義の全記録
第四章 一九三七‐一九三八年度講義要約――高等研究院・宗教学科の一九三八‐一九三九年度年報からの抜粋
第五章 哲学と知恵――一九三八‐一九三九年度、最初の二回の講義の全記録
第六章 永遠・時間・概念についての覚書(五五八頁、一〇‐一一行参照)――一九三八‐一九三九年度、第六回講義より第八回講義までの全記録
第七章 『精神現象学』第八章第三部(結論)の解釈――一九三八‐一九三九年度、第一二回講義の全記録
第八章 ヘーゲルにおける実在するものの弁証法と現象学の方法――一九三四‐一九三五年度、第六回講義より第九回講義までの全記録
第九章 ヘーゲル哲学における死の観念――一九三三‐一九三四年度、最後の二回の講義の全記録
付録『精神現象学』の構造
訳注
解説
索引
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
てれまこし
10
柳田国男にヘーゲル的なものがあることが気になっていたが、これを読んで解けたと思う。柳田は恐らくヘーゲルを読んでいないが、ドイツ歴史学派を経由して、自然と歴史という区別が人間の自由と関係していることを見抜いていた。柳田の視点を自然主義的に捉える谷川健一らは、彼の思想の片面しか見ていない。長谷川如是閑などの社会科学的自然主義とちがって、自然の否定としての歴史という視点から人間科学を考えたところに柳田とヘーゲルの繋がりがある。柳田にとっては文化も自由の問題と切り離せない点で、文化ナショナリズムから一線を画す。2019/11/11
またの名
8
見よこのドヤ顔。歴史の終焉と動物化・スノビズムの議論を追いかけるためには必需の本書の独自色は、実存主義的及びマルクス主義的な読み直しだけではなく「欲望の哲学」としてのヘーゲル再解釈にもある。「他者の欲望の欲望」「欠如・無としての欲望」等の有名なテーゼは、自然なままに生きる動物と否定によって歴史を創る人間との差異化を図るもの。歴史の完成に至ってしまったら人間が自由な人間性を失うという弁証法のパラドクスに対して、日本人の過剰に洗練された様式美(才能の無駄遣い)に人類の未来を見出したコジェーヴ。先見の明過ぎる。2013/10/01
羊山羊
7
ヘーゲルのヒューマニズム性と啓蒙性について特にスポットして語る1冊。本著の元の講義から、仏現代思想は始まったといわれている、時代の結節点。人間が動物でないのは自己意識により、自然を労働や闘争で乗り越え、訪れる死を意識することで人間は人間として存在できるとする。やたら難しいヘーゲル哲学を、熱のこもった語り口で語りきる。ヘーゲルの人間論と無神論的解釈の書として評価されるべき1冊だ。2020/06/25
井蛙
3
人間は死すべきものである限りで、死すべきことを知る限りで、己の死を抵当に闘争する限りで、人間である。ゆえに未だ人間ならざる人間は人間以下として生きるか、死すかの選択を迫られる。アポリアだ!さてコジェーブによればこれは主と奴という二種類の人間を導入することによって解決される。己を、自然を無化する無であると見定めることはまさしく創造行為であり、死せずして死に生きることになるだろう。メメント・モリがしばしば「死を忘れるな」と意訳されるのは、記憶するという行為が強い意味で否定的(創造的)であるからではないか?2017/11/06
道明寺
2
取り敢えず第2章まで。 欲望は他者の欲望するからこそ人間的な欲望たり得る。主は奴隷により享受される物の中で快楽に愚鈍となるか、戦争に赴くしかなくあるがままの自己を肯定し得ない。一方奴は労働により教化形成されることが出来る。労働による自己変化と世界への変化を働きかけるからである。非キリスト教社会において、傭兵を雇う事で多くの奴が主を持たぬ奴へと。奴は奴としての自らと自由としての理想の差を和解させようとストア主義化▶これに倦み果てることで懐疑主義化▶彼岸において自由になるキリスト教徒化。2019/11/20
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