内容説明
インド解放の熱意は日本軍と共にインパールで戦い死せる後も英国を翻弄させた!ベンガルの名家に生まれ、ケンブリッジ大学で学び、栄達の道をなげうって独立運動に身を投じた、日本と運命を共にした心優しき闘魂の人。
目次
海底六千浬
名家の子
革命児の誕生
独立運動の渦中へ
指導者への道
第一回欧州亡命
マハトマとの対決
国外脱出
対日提携への熱い想い
日本、インド進攻に食指
インド独立連盟新総裁に
「チェロ・デリー」
飢餓と雨と泥嚀
敗走
日本と悲運を共に
台湾の空に散る
死せるボース、英を走らす
彷復うボースの魂
著者等紹介
稲垣武[イナガキタケシ]
昭和9年、埼玉県に生まれる。東京大学文学部西洋史学科(技術思想史専攻)卒業。朝日新聞入社、「週刊朝日」副編集長を経て平成元年退社、フリージャーナリストとなる。「悪魔祓いの戦後史」で第3回山本七平賞受賞。戦略論、日本人論など著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
jj
2
印度の偉人は一般的にガンジーですが、印度人の国民的英雄はチャンドラボースなのですよね。ボース/国民軍は日本傀儡でなく、純粋に印度独立の為に日本軍と共闘した事実拡散が英国から独立する原動力となった訳ですね。東京裁判史観とレッドフォート裁判史観における日印の違いは、敗戦が初経験故に従順・萎縮し過ぎた日本人と英国200年支配が故の、法廷闘争経験に基づく強かな印度人。GHO洗脳後遺症に悩む日本と民族・宗教意識が高まり分裂した印度。英米の他民族統治経験/人種差別観念の差による法の適応の違いを其々感じてしまいました。2016/03/12
もとせ
1
27頁【昭和18年(1942年)6月21日、ボースは東京から祖国インドへ向けラジオで第一声を送った。「インド人達よ、私はいま東京に在る。大戦が勃発したとき、会議派のある者は、圧力と妥協によって英国から自治と独立への譲歩が引き出せると考えた。しかし英帝国主義は微動もしていない。英国が自発的に植民地を放棄するであろうと期待することこそ、真夏の夜の夢に過ぎない。(中略)われわれの独立に妥協は許されない。真に自由を欲する者は、自らの血をもって戦いとらねばならぬ。」】2014/05/22
Shinya Fukuda
0
チャンドラボースの生涯が描かれている。ネタージはインド独立のためにはガンジーのやり方では生温いと思っていた。そのためドイツと組もうとしたが人種差別主義者のヒトラーは冷淡だった、そこで日本と組もうとした。日本陸軍とネタージとの連絡は藤原機関を引き継いだ光機関が受け持った。この辺りの事情は藤原岩一のF機関に詳しい。インパール作戦は牟田口の功名心が招いた戦史上最低の作戦だったが東條や杉山を動かしたネタージも一枚噛んでいる。このことがあるから著者の思い入れはわかるがどうしても引っかかってしまう。2020/08/19
かば◎
0
亡父がインパール作戦直前に国民軍と関わりがあり、昔から「チャンドラ・ボース」の名前は知っていて、以来、断片的に知識は得てきたものの、きっちり伝記として読んだことはなかったので、改めて勉強するつもりで読む。見え隠れするのは、(個人として信奉し尽力した人はいたとしても)「大東亜共栄圏」が、国の施策としては単に日本の覇権狙いのお題目であったこと。それはどうあれ、これまではボースは「志半ばで斃れた人」という認識だったのだが、むしろ「斃れることによって初めて志を遂げることができた人」に変化したのは一つの収穫か。2018/12/14