内容説明
1945年7月28日、呉沖・日米最後の海空戦で撃墜されたB‐24爆撃機2機、艦載機20機の搭乗員たちがそれぞれに遭遇した過酷で数奇に満ちた運命。―戦艦榛名に撃ち墜とされながらも奇跡的に生き残ったB‐24ロンサムレディー号の機長や被爆死した米兵遺族との交流により知り得た事実と膨大な量のGHQ文書、さらには日本側関係者への聞き取り調査によって明かされた衝撃の実情をとおして、歴史の暗部に挑む感動のライフワーク。
目次
第1章 原爆の絵
第2章 狙われる広島
第3章 撃墜
第4章 米兵との邂逅
第5章 中国憲兵隊司令部へ
第6章 原爆投下前夜、そして当日
第7章 被爆死した米兵は何人いたのか?
第8章 相生橋の謎
第9章 遺族たち
著者等紹介
森重昭[モリシゲアキ]
1937年、広島市生まれ。中国憲兵隊司令部そばの済美(せいび)学校幼稚園に入学。国民学校3年時に集団疎開に行かず己斐に転校して助かる。中大卒。山一証券、日本楽器に勤務する傍ら、警防団が己斐小で2万人の被爆者を焼いたという証言の真否を確かめるため、日曜日、祝日に被爆調査を開始。約20年調査する。のべ約1000人に聞き取り調査をした結果、『広島原爆戦災誌』にも書いていない数々の新事実を発見。その一環として米兵捕虜12人の被爆死を知る。歴史研究家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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AICHAN
32
図書館本。広島に捕虜収容所はなかった。原爆を広島に投下することに決まったひとつの理由がそれだった。しかし、広島には外国人捕虜がいた。長崎に捕虜がいることは米国は知っていた…。著者はジャーナリストではない。にも関わらず勤務のかたわら独力・自費で丹念に歩いて取材し当時の“事実”をこうして記録した。著者自身も被爆者で、先日、広島を訪問したオバマとハグしたのはこの著者の森重昭氏その人。市井の人によるこういう仕事には頭が下がる。勲章ものだと思う。2016/10/16
よしじ乃輔
8
①「広島戦災誌」にも載っている「死んだ米兵」ついて、自らも被爆した著者の調査によりわかった米兵捕虜12人の被爆死について。仕事の合間に行われたその調査は何年もかけ国内外1000人以上にのぼる。②米軍兵士の被爆死を米国政府は隠蔽。遺族へも詳細は伝わっていなかった事実。③ひっそりと死んでいった連合国捕虜の無念を後世に伝えたいという著者の思いは戦争の不条理を語っている。④終戦までの犠牲により現在の時間がある。それが学ぶべき事の一つではないかと思う。2022/08/23
jack
1
組織あって、人はなし。真実が掠め取られていく。 ☆4.82015/07/19
りんふぁ
1
墜落した飛行機で農作業に必要なものを作っていた日本人にビックリした。
兵衛介
1
「原爆で死んだ米兵はいなかった」とする建前を守るために、終戦直後には把握していたにも関わらず遺族にさえも情報隠蔽する米政府。米兵を日本人が虐殺したことにしたい日本の新聞社…真実を追求しようという著者の努力によって、真相はほぼ明らかにされたが数十万の日本人の死という現実の前には虚しさが残る。2011/09/18