窓あるいは鏡―ネオTV的日常生活批判

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  • サイズ A5判/ページ数 368,/高さ 22cm
  • 商品コード 9784766415667
  • NDC分類 699.04
  • Cコード C3036

内容説明

テレビは社会や世界に向かって開かれた「窓」(パレオTV)なのか。あるいは、世界への眼差しを喪失し、もっぱらそれを観る者自身のみを映し出す「鏡」(ネオTV)に過ぎないのか。本書では、ウンベルト・エーコが提唱し、ドミニク・メールが発展させた「パレオTV/ネオTV論」を基軸に、ドキュメンタリー、ドラマ、スポーツ、バラエティ番組などの変容を分析。私たちの日常生活に深く浸透し、その認識枠組みを構築するテレビの変容と、メディア的日常を生き、主体性を喪失しつつある私たちの社会の閉塞状況との密接な繋がりを批判的に検証する。附録として、ウンベルト・エーコ「失われた透明性」を収録。

目次

第1部 コミュニケーション・システムとしてのテレビ―その理論的射程(テレビとは何だったのか―テレビの批判的研究の枠組を問い直す;日常生活空間とテレビを媒介する理論)
第2部 ジャンルの彼岸へ―語られざるコミュニケーションの階梯(バラエティと空間の地層―解放の笑い/笑いの解放;ヒロシマ―ネオTV時代のドキュメンタリー;ドラマの「真実」―タレント・ドラマからコンテンツ・ドラマへ;日本のテレビの「世界」―「世界系」の番組から見たパレオTV/ネオTV;テレビ=サッカー―テレビ・コミュニケーションの「基層」;「意味」への背走/「失敗」の系譜)
第3部 テレビの再生―ネオTV的日常批判(人称化をめぐって―指標化とネオTV化のベクトルの交わるところ;窓であり、鏡でもある―テレビの再生のための断章)

著者等紹介

水島久光[ミズシマヒサミツ]
1961年生まれ。現在、東海大学文学部教授。1984年慶應義塾大学経済学部卒業後、広告会社、インターネット企業を経て、98年「インフォシーク」日本法人の立ち上げに参加。2001年東京大学大学院学際情報学修士課程修了。専門は、メディア論、情報記号論

西兼志[ニシケンジ]
1972年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程単位取得後退学。現在、東京大学大学院情報学環研究拠点形成特任研究員。情報・コミュニケーション学博士、哲学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

感想・レビュー

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じょに

4
そうなんだよ。何が一番不思議かって、パソコンの前で「笑い」は起きないんだよ。せいぜいニヤニヤした「嗤い」があるだけ。テレビがあれだけ簡単にやってのけたのに。2009/08/17

ぷほは

1
ぬ~。まだ流し読みなのでハッキリしたことは言えないが。期待から少し外れていた印象。ルフェーブルとシュッツの日常性批判をテレビ論の出発点にするのはそんなに悪くないと思ったのだが。哲学的議論の偏向が肌に合わないのかもしれない。ルーマンなら<リアルタイム性>と呼ぶところの、デリダの「人為時事性」や「仮想時事性」、或いはエーコのパレオTVとネオTVの区別も、テレビの固有性に届いていない気がする。本論での一番の疑問は人称化がすぐに<顔>に繋げられて「個」の問題となっていること。複数人称や無人称の問題はどこいった。2015/10/15

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