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著者等紹介
甲斐荘楠音[カイノショウタダオト]
1894(明治27)年12月13日、京都市上京区に甲斐荘正秀、かつの三男として生まれる。幼少より病弱で、13歳で京都府立京都第一中学校に進むも、翌年、京都市立美術工芸学校図案科に編入する。もっぱら図書館へ通い西洋の画集を読む日々を送る。1912(明治45)年、18歳で京都市立美術工芸学校を卒業すると、京都市立絵画専門学校へ入学。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ウィリアム・ブレイクなどに傾倒する。1917(大正6)年、第8回大日本産業博覧会に出品し入選。この頃より丸岡比呂史のアトリエである別荘で共に制作し、比呂史の妹トクと親しくなり両家公認の仲となる。翌年には第1回国画創作協会展に“横櫛”を出品して入選をはたし評判となるが、2年後の第3回同展では落選か不出品に終わったと思われる。この頃、丸岡トクが新実八郎兵衛に見初められ妻となる。その後も国画創作協会展への出品を続け、1926(大正15)年、第5回国画創作協会展に“女と風船”を出品したところ、土田麦〓から“穢い絵”として陳列を拒否されるも、同年、国画創作協会会員となる。1928(昭和3)年、第7回で国画創作協会第1部(日本画)は解散し、楠音は会員や会友らと新樹社を結成し熱心に活動をするが、3年後に自然解消となる。これ以降、画名を「甲斐荘」から「甲斐庄」と改める。しばらく蒼穹社展に出品を続けた楠音は、1940(昭和15)年、映画「芸道一代男」の仕事を通じて溝口健二監督と出会う。翌年、東京銀座で個展を開催したが、以降、映画の世界へ入り、ほとんどの溝口映画の衣裳や風俗考証を担当する。1955(昭和30)年、楠音が風俗考証を担当した「雨月物語」はアカデミー賞衣裳部門にノミネートされる。しかし翌年、溝口健二が死去し、楠音は再び絵の世界へ戻っていく。その後、49歳より参加していた溝口健二一門の集い「山賊会」を通じての作品発表を続けたが、1976(昭和51)年、山賊会の友人たちの尽力で東京日本橋三越にて「甲斐荘楠音回顧展」が開催され、山賊会は一応の解散となる。1978(昭和53)年、京都北区の友人宅で持病の発作で急逝(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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