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出版社内容情報
アガンベンの仕事は、小社刊の『人権の彼方に』によって9・11以後の世界政治が大きく変転しはじめたことと相俟って、静かな、しかし熱いまなざしで受容されつつあります。本書はアガンベンの主著『ホモ・サケル』の翻訳です。前著によって示された「例外状態と剥き出しの生」について、ホモ・サケル(聖なる人間=剥き出しの生)の形象を追跡しつつ、主権的決定の現場に迫る魅力的な議論を展開しているばかりではなく、カール・シュミットの「例外状態」の概念を、ハンナ・アーレントの全体主義とミシェル・フーコーの生政治に立って鍛え直した刮目すべき書です。「剥き出しの生」の形象は、もはやアウシュヴィッツのみならず、今日のわれわれの日常にすでに馴みになっています。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
34
25
本日付のニュース。「入管にハンスト抗議、イラン人仮放免 体重25キロ減も」。《仮放免されたのは、在留資格がないために収容され、その後2年以上収容されていたマジッド・ネジャドさん(51)ら4人のイラン人。個人的な事情などで帰国もできなかった。約2年8カ月間収容されていた30代の男性は5月10日からハンストを始めた。「病気の人しか仮放免されないから自分の体を傷つけるしかなかった」と話す》。アガンベンによると、剥き出しの生とは《規範の適用に関して決定する事実を決定する規範》と一致した生。2019/07/10
34
23
剥き出しの生とは暴力に晒された生の形象のことだとひとまずは云えるだろう。しかし暴力に晒された生は血を流し死ぬことでその関係をやめてしまうこともできる。そのため、生が暴力との関係に入るとき、その関係自体が保存されるような領域が存在するのでなければ、剥き出しの生のようなものもありえない。それが法権利の領域である。対してホモ・サケルとは、だれもが処罰されることなく殺害することができ、しかし生贄というかたちでは殺害することができない、ローマ法に見られる犯罪者の形象である。→2017/02/20
zumi
16
人間なるものをめぐる問い、アガンベンの思考の根底には、それがあるのではないだろうか。本書においてメインとなるのは、主権権力と生政治の問題だ。主権権力は「緊急事態」などの形で現れる「例外状態」を維持するためのもので、「例外」として弾かれたものが「ホモ・サケル」だと言う。法の外に存在しながら、主権権力によって隷属させられる彼らは、まさに「剥き出しの生」そのものと深く関わる。その状態で行われる主権権力による「生殺与奪」、これこそが生政治なのだとすれば、「生」とは統治行為の中心にくる統治ものなのではないだろうか。2014/05/11
白義
12
本書の主役は儀礼的な犠牲者にすらなりえない、ただ一切を剥奪された棄てられし身体であり、古代から現代まで主権権力と政治空間がいかにそれを排除、あるいは管理することによって自らを確立してきたかに関しての理論的思考の試みである。著者は聖なる人間の締め出しから管理への移行、生-政治への変貌に近代とそれ以前の政治空間の決定的な違いを見出だす。そしてそれらの極点としてのナチスやアウシュヴィッツこそ生-政治と法政治、最底辺の殺害者、聖なる人間と主権者、例外状態と規則が不分明になる閾を実現させたというわけだ2012/08/22
ヒナコ
8
フーコー以降の生政治論に触れるべく読んでみた。 フーコーは近代における生権力に関して人間を導き生かす権力と考えていたが、アガンベンの場合は、フーコーが古典的なモデルとして近代以降なくなっていくと考えていた生殺与奪が近代でも機能していると論じている。→2022/02/03