明石ライブラリー
アメリカにおける白人意識の構築―労働者階級の形成と人種

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  • サイズ B6判/ページ数 380p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784750323862
  • NDC分類 316.853
  • Cコード C0336

目次

第1部 白人労働者の誕生(序にかえて―少年時代の人種意識と理論問題;白人労働者の誕生前史―一八〇〇年以前における入植者のコロニアリズム・人種・共和主義)
第2部 独立革命から南北戦争までの人種と階級的言語(私は奉公人でもなければ主人でもない―共和主義的白人労働者の用語におけるキーワード;白人奴隷・賃金奴隷・白人自由労働者)
第3部 産業化が進むアメリカ社会と労働・文化・白さ(南北戦争以前のアメリカ社会と階級・黒人・民衆;白い肌と黒い仮面―南北戦争前のミンストレル劇と白人労働者階級の形成;南北戦争以前期におけるアイルランド系労働者と白い人種の形成)
第4部 奴隷解放の限界と労働者階級の白さの運命(エピローグ―新しい生活と古い習慣)

著者等紹介

小原豊志[オバラトヨシ]
1964年生まれ。東北大学文学研究科博士課程中退、修士(文学)。東北大学大学院国際文化研究科アメリカ研究講座助教授。専攻はアメリカ政治史

竹中興慈[タケナカコウジ]
1948年生まれ。一橋大学社会学研究科博士課程単位取得満期退学、博士(社会学)。東北大学大学院国際文化研究科アメリカ研究講座教授。専攻はアメリカ社会史・黒人史

井川眞砂[イガワマサゴ]
1948年生まれ。奈良女子大学大学院文学研究科修士課程修了、修士(文学)。東北大学大学院国際文化研究科アメリカ研究講座教授。専攻はアメリカ文学

落合明子[オチアイアキコ]
筑波大学歴史・人類学研究科博士課程中退、博士(文学)。東北大学大学院国際文化研究科アメリカ研究講座助教授。専攻はアメリカ黒人の歴史と文化(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

出版社内容情報

合衆国におけるホワイトネス(白人性)の意識は、賃金労働に甘んじることへの不安と資本主義的労働規律の要請からアイルランド系移民労働者を中心とする白人労働者階級の中で形成されていった。賛否の論争を巻き起こしたホワイトネス研究の先駆的著作の邦訳。

日本語版への序文
本文に関するノート
謝 辞
凡 例
第1部 白人労働者の誕生
 第一章 序にかえて――少年時代の人種意識と理論問題
 第二章 白人労働者の誕生前史
     ――一八〇〇年以前における入植者のコロニアリズム・人種・共和主義
第2部 独立革命から南北戦争までの人種と階級的言語
 第三章 私は奉公人でもなければ主人でもない
     ――共和主義的白人労働者の用語におけるキーワード
 第四章 白人奴隷・賃金奴隷・白人自由労働者
第3部 産業化が進むアメリカ社会と労働・文化・白さ
 第五章 南北戦争以前のアメリカ社会と階級・黒人(クーン)・民衆
 第六章 白い肌と黒い仮面――南北戦争前のミンストレル劇と白人労働者階級の形成
 第七章 南北戦争以前期におけるアイルランド系労働者と白い人種の形成
第4部 奴隷解放の限界と労働者階級の白さの運命
 第八章 エピローグ――新しい生活と古い習慣
再版への結びの言葉
訳者あとがき
原 註
『アメリカにおける白人意識の構築』に関する主な書評
索 引

日本語版への序文
 『アメリカにおける白人意識の構築――労働者階級の形成と人種』の邦訳は、私が二〇〇〇年に京都アメリカ研究夏期セミナーで基調講演を行ったことに端を発している。私自身、あの訪問から受けた刺激がもととなって、この短い日本語版への序文でこれから述べるような重要な問題を考えるようになったのだった。その問題とは、「白さ」という概念がもっとも広く研究されたのは合衆国であるけれども、それ以外の地域においてこの概念はどのように取り上げられているのかということである。私は、合衆国のアメリカ学会の年次大会において日本から来ていた研究者と交流していたので、京都のセミナーに参加するにあたっては、日本のアメリカ研究者が合衆国研究で取り組んできた洗練された研究方法に備えて十分準備したつもりでいた。しかし、セミナー中、公的なセッションであれ、それ以外の場であれ、とくに印象的だったのは、日本人や環太平洋地域からの参加者が白さの批判的研究から得た洞察や方法を、比較研究に熱心に応用しようとしたことだった。当然のことながら、彼らが提起したのは、いかに日本の帝国主義と白人優越主義に類似点があるかという問題だった。この問題は、その後、ジェラルド・ホーンの『人種戦争!――白人優越主義と日本のイギリス帝国攻撃』(ニューヨーク大学出版、二〇〇三年)や、ユウイチロウ・オオニシが二〇〇四年にミネソタ大学へ提出した傑出した博士論文、「黒人の自由への闘いの大いなる歩み――二〇世紀におけるブラック・アメリカと日本の間太平洋関係」によって綿密に考察されている。
 日本人の若手研究者たちはまた、日本には、身分制度(カースト)のような被差別部落民への抑圧や、韓国・朝鮮人と沖縄人への抑圧の歴史があるため、日本社会においても支配的な人種(あるいはエスニック)が構築されたのではないかという問題を繰り返し提起した。彼らが見るところでは、そのようなアイデンティティは、「他者」の欠陥に焦点を当てることによって、支配集団が特権を持つのは当然のこととみなすやり方で――これは、私が『アメリカにおける白人意識の構築』において、合衆国における白さに与えたのと同じ役割である――構築されたのだった。議論がそこまで広がってしまうと私には何も言うことができなかった。なぜなら、日本史に関する私の知識が限られていたからである。さらに言えば、アメリカと日本を比較したとしても、両者の相違点はその類似点に劣らないくらい大きいと感じられた。実際、竹中興慈氏が同僚のアメリカ研究者とともに、この『アメリカにおける白人意識の構築』を翻訳しはじめるとすぐに、書名の中の白さ(ホワイトネス)という言葉が問題になったという。なぜなら、その言葉に相当する日本語がなかったからである。
 それにもかかわらず、国境を越えて白さを考察しようとした京都セミナー参加者の試みは、白さに関する批判的研究が拡大して、現在のようにこの研究がもっとも重要な研究分野になることを先取りしたものだった。たとえば、メラニー・ブッシュの、白さに関する「国際的/比較」研究という大変すぐれた二〇〇四年の文献目録【ティム・エングルズ編『批判的ホワイトネス研究文献目録』(イリノイ大学出版部、二〇〇五年)】には、一二五編以上の文献名があげられている。しかも、そのおよそ四分の三は過去五年間に出版されたものである。これらの研究の大半が、イギリスもしくはオランダの帝国主義による植民地開拓から創出された移民国家を研究対象にしている事実は示唆的である。ブッシュは、文献リストの総説的項目の後に、国家や地域で分類した項目を五つだけ設けている。「オーストラリア及びニュージーランド」の項目には五〇編があげられ、その中にはガサーン・ヘイゲとギリアン・カウリショウの重要な研究書も含まれている。「南アフリカ」の項目には、ジェレミー・クリークラーの才気溢れた著作をはじめとする一五編の研究成果があげられ、「カナダ」の項目には五編があげられている。一方、「アジア」の項目は短くてわずか四編、「ラテン・アメリカ」の項目にも五編しかあげられていない。しかし、最後の二項目も、白さの国際的研究として括られている研究をより広い意味で捉え直せば、いまよりも長いリストが出来上がるだろう。こうした観点に加え、アングロ系アメリカ人だけを白さのアイデンティティを創り出した張本人とみなす見方を克服すれば、人種を地球規模に定義するという京都セミナーで表面化した困難な問題も提起できるだろう。たとえば、タロウ・イワト、ムーン=キー・ユン、エヴリン・ナカノ・グレン、ロナルド・タカキらによるハワイに関する最近の傑出した研究によれば、移民とともに人種の概念も移動するため、人種概念はかなりの程度伝達されることが明らかになっている。したがって、日本人、中国人、プエルトリコ人、ポルトガル人の農業労働者がハワイにおいて経験した白人優越主義は、移民がどのような人種概念を持ち込んだのかという問題を考察する手がかりになるのである。ラテン・アメリカの場合は、大西洋奴隷制史に関する大量の比較研究を、西半球における白さの構築史として読むことも可能である。なぜなら、この地の奴隷主たちは、ひとつには黒人の隷属を正当化するために、いまひとつには白人内部の貧困者に奴隷制度を擁護させるために、白さという範疇を創り出したからである。
 もちろん、白さの歴史は、地球規模では言うに及ばず、半球規模でも時と場所に関係なく構築されたため、同じ白さといっても、そこには大きな相違点のあることが明らかになるだろう。実際、スティーヴン・J・ゴールドは最近、『エスニックおよび人種研究』誌(二〇〇四年一一月号)で、「地球規模の人種主義」というような認識がなされてしまうと、「黒人」と「白人」を主要な範疇として始まった分析がおろそかになると述べている。とくにこの点に関して、ロバート・マイルズとマルコム・ブラウンは、「ただひとつの歴史的経験(合衆国の事例)だけをもとに形成された人種主義概念が、無批判的に別の歴史的経験に適用されてしまえば」、それは必然的に損なわれることになるに違いないと警告している。
 おそらく、合衆国を中心にした分析を世界全体に適用することをもっとも激しく批判し、かつ成果をあげているのは、「帝国主義者の論拠の狡猾さについて」という論考だろう。この論文は、カリフォルニア大学の社会学者のロイック・ワクアントと社会理論家で活動家の故ピエール・ブルデューによって発表されたもので、一九九九年に出版された『理論、文化、社会』誌に収められている。ブルデューとワクアントは、ある時代の支配的な観念はその時代の支配者によって生み出されるというマルクスの議論をきわめて強い調子で繰り返したのだった。彼らによれば、合衆国の「文化帝国主義」は人種や階級に基づくさまざまな支配形態を標準化し、その結果、歴史の誤解を招いたり、今後の政治的な可能性を誤った方向に導くことになるという。
 ブラジルに焦点を当てたブルデューとワクアントは、合衆国に刺激を受け、合衆国から資金も与えられ、合衆国によって生み出された研究など、「黒人と白人の間に厳密な社会的区分をすること」を押しつけるがゆえに、「有害なもの」を拡散するにすぎないと論じている。ブルデューとワクアントによれば、そのような意味での「帝国主義」は、そこで論じられていることが「ブラジル人が自らの国家について持っているイメージと相反する」ものであるとはいえ、反人種主義的なレトリックと研究者への新自由主義的資金提供というよこしまで曖昧な組み合わせのもとで、うまく浸透しているという。ひとつの議論として見れば、「帝国主義者の論拠の狡猾さについて」は、唯一の超大国のもとで世界における「思想のマクドナルド化」が進行しているという現実の脅威を指摘した、情熱溢れる、力強い論文と言える。ときに、その著者たちは、この概念は合衆国の社会学でもっとも認められていない概念だからこそ、輸出用に回されているのだと厳しく批判している。
 しかし、人種は輸出不可能な合衆国の独自の概念であるとするブルデューとワクアントの議論は、とくにブラジル研究者のマイケル・ハンチャードやジョン・フレンチ、文化理論家のエラ・ショハットやロバート・スタムからの一連の辛辣な批判によって過去のものになってしまった。ブルデューとワクアントに対する反論は以下の点を明らかにしたのである。すなわち、第一に、合衆国であれ、ブラジルであれ、人種は分析が目的で取り上げられるのであり、非難する目的で人種が利用されることはないということであり、第二に、ブルデューとワクアントが「歴史的コンテクストの中立化」と呼んでいるものは、この場合、彼ら自身の政治的還元論に向けられかねない非難であるということであり、第三に、「帝国主義的論拠」やブラジルの社会制度をそのまま引き写した制度を拡散していると非難された学者たちこそが、実際には、長い期間にわたって、合衆国とブラジル両国の研究者を惹きつける議論を続けているということである。そして、その議論が合衆国を中心にした議論とはつねに微妙に違っていたからこそ、これらの研究者は、ブラジルに先住民、帝国、奴隷貿易、奴隷制が転置されたという独特の歴史的コンテクストゆえに、この国には他国と大変異なってはいても、合衆国の人種制度よりは比較することが可能な人種制度が生み出されたことを十分に理解できたのである。
 『アメリカにおける白人意識の構築』の日本の読者は、そのほとんどが、合衆国の歴史の理解を深めるために本書に接するだろう。しかし、本書を読むことによって、日本および全世界で人種とそのほかの社会的不平等がいかに絡み合っているかということにも思いを巡らしてほしいと私は思っている。イギリスの地理学者、アラステアー・ボンネットの『白人のアイデンティティ』には、日本における「白さ」に関するきわめて示唆的な論文が収められている。その中でボンネットが述べているように、「白さに関する議論は国際化されるべきであり、アメリカに限られた議論としてではなく、地球規模の議論として再び取り組まれるべき」なのである。したがって、その際には、合衆国を典型的な例と前提することなく分析を進めなくてはならないのである。われわれが「帝国主義者の論拠の狡猾さについて」をめぐる議論に啓発され、これに興奮を覚えたことから分かるように、われわれは、なぜ白さが重要視されるのか、そして、それぞれの社会の歴史には他者との類似点も相違点もあるのに、なぜ、不平等の範疇が名付けられたり、名付けられなかったりするのか、また不平等が構築される社会とそうはならない社会に分かれるのか、といったことを理解する出発点にいるのである。

二〇〇五年八月
デイヴィッド・R・ローディガー