日本・アフガニスタン関係全史

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  • サイズ A5判/ページ数 607p/高さ 22cm
  • 商品コード 9784750323688
  • NDC分類 319.102
  • Cコード C0021

出版社内容情報

日本の文献に初めてアフガニスタンが登場するのは江戸末期。文物の渡来なら飛鳥時代に遡るという。近代以降は文化・技術・経済など様々な面で両国は緊密な交流を重ねてきた。年表や文献一覧など充実した資料をあわせ日本・アフガン関係1300年の全記録をたどる。

アジアに架ける虹の橋(前田耕作)
はじめに
アフガニスタン行政州区分地図

第1章 黎明期
 『坤輿図識』記載のアフガニスタン/ラピス・ラズリ/大阪阿武山出土の金モール/カラフト放棄/ロシアの南下政策/アフガン王の変遷と最初の切手/日本のロシア公使館設置と榎本武揚/西徳二郎/新聞記事とアフガンの国名表記/アフガニスタンに関する読売新聞の記事/バーミヤーン大仏の紹介/今野厳太/陸軍文庫のアフガン資料発行/シャーロック・ホームズの相棒ワトスン/福島安正/井上雅二/鹿鳴館時代/荒尾精/日露戦争とマフムード・タルズィ/ムハンマド・アイユーブ・ハーン/石光真清と明治天皇の逝去

第2章 国交開設へ
 谷壽夫/大川周明/ラージヤ・プラタップ/宮沢賢治/プラタップの再来日/田鍋安之助/『亞富汗斯坦』/プラタップの再々来日/布利秋/草賀一郎、山湊不二雄/アマーヌッラーの外遊/プラタップ氏招待会/日本アフガニスタン修好基本条約の調印/バッチャ・イ・サカーウの政権奪取/輸出補償法/日本アフガニスタン修好条約の調印/高垣信造/日本アフガニスタン修好条約の批准/アフガン縦断鉄道で我国へ建設注文/尾高鮮之助/実業視察団/山内秀三

第3章 国交開設から敗戦
 アフガニスタン公使館建設へ/初代公使ハビーブッラー・ハーン・タルズィ/野村俊吉/ムハンマド・ナーディル・シャーの暗殺/大阪毎日新聞、近東・中亜調査団=田中逸平/日本初代公使・北田正元/ムハンマド・ザーヒル・シャー/斉藤積平/亀山六蔵/下永憲次/富田美津雄/アフガニスタン倶楽部の設立/尾崎三雄/松島肇/トプシー/初の留学生6名が来日/アフガン独立記念日(8月14日~21日)/アブドゥル・ラウフ・ハーン・タルズィの「日本小旅行」/アフガニスタン関係邦人名簿/斉藤積平の『アフガニスタン国内視察報告』/近藤正造/日本式学校設立の建議/イスラム文化協会/モスクの建設/高垣信造の帰国/小川亮作/池本喜三夫/イスラム団体の動き/山本智教/石山慶治郎/回教圏展覧会/邦人関係者/アフガニスタン留学生の北海道見学/吉田英三少年/アフガンへ長尾鶏/アフガン経済使節団の来日/小林亀久雄公使/岩崎信太郎代理公使/守屋和郎公使/アフガニスタン協会役員一覧

第4章 日本とアフガニスタンを結んだ人々
 アルフレッド・フーシェとジョゼフ・アッカン/シトロエン・アジア大陸横断探検隊/ヘルベルト・ティヒー

第5章 国交再開からソ連侵攻(1945年以降)
 バンディ・アミール湖/日ア国際結婚/岩村忍/京大カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊/国交再開/映画『カラコルム』/京大イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊/日本の技術者援助-1/日本映画の上映/王族の来日/ノシャック山初登頂/アフガン通商使節団/京大第3次イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊/アフガニスタン古代美術展/第1次名古屋大学アフガニスタン学術調査隊/京大第5次イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊/ジャムのミナレット/東京オリンピック/シルクロード踏査隊/兼高かおる世界の旅/日本人の技術者援助-2/ザーヒル・シャーの訪日/第2次名古屋大学アフガニスタン学術調査隊/大阪万国博覧会/アフガニスタン留学生/『ハルブーザ』の創刊/皇太子ご夫妻(現天皇・皇后両陛下)のアフガン訪問/梶正彦青年の冒険旅行/映画『ホースメン』の公開/王族の来日/三国連太郎『朱色の土』(仮題)/映画『陽は沈み陽は昇る』/ダーウード元首相によるクーデター/観光客/第1次成城大学学術調査団/日本・アフガニスタン協会の設立/アジア・ハイウェー/第2次成城大学学術調査団/人民民主党が政権握る/カラーテレビ放送開始/1970年代の日本の経済技術協力

第6章 ソ連の侵攻後
 在留邦人・在日アフガン人/ソ連駐留下における援助/モンシロチョウのルーツ/映画『よみがえれカレーズ』/ターリバーン後/『おしん』のテレビ放映/戦後の大使

あとがき
日本・アフガニスタン関係史年表
付 録

アジアに架ける虹の橋
 アフガニスタンを一度でも訪れたことのある人は、アフガニスタンを生涯忘れることはない。この国には、幾世紀にもわたって蒙りつづけてきた戦災にもかかわらず、それゆえに強いられた貧窮にもかかわらず、それらを超然としのぎ抜け、汚れのない魂をもちつづけた人々がおり、荒々しいけれども時のうつろいを優しく教える風景があり、その自然と人間が織りなしてきた多層の文化があり、汲めども尽きることない泉のような豊かな歴史があるからである。
 遠い昔、アリアナと呼ばれてきたこの国が、どれほど古代の人々の熱いまなざしを引きつけてきたかは、ギリシア・ローマの名だたる著作家たちの書をひもとけば、たちまちわかるだろう。ヨーロッパとアジアの接点にあり、蝶つがいの役割を担ったこの地域、世界の枢軸であったこの国域に人々が関心を払いつづけたのも自然なことであった。
 近代になっても事情は大して変わることはなかった。ただ古代と異なるのは、ひたすら強国が自国の便益のためにのみ、アフガニスタンを「防壁」として、「緩衝地」として、凝固させようと干渉しつづけたことである。近代の列強諸国は、アフガニスタンを軍事的要衝としてのみ重視し、そこで生活を営む人々の多様なあり方や文化や風景に目を注ぐことはなかったということである。
 アジアの内陸で覇権を競う英国、ロシア、フランスなどの列強は、世界の「余白」の地でありながら、アジアの「中心」に位置するというアフガニスタンのアンビヴァレント(両極的)な特異の存在を、もっぱら軍事的、政治的な視座から着目し、だからこそ力づくで自国の中へ取りこもうとしつづけたのであろう。
 1747年にようやく建国をなしとげたばかりのアフガニスタンにとって、民族の統一を図りながら、近隣諸国に伍して独立を守りつづけることはきわめて難しい課題であった。河と山のみに拠って独立を貫き通すことはできない。「富国強兵」と、多民族国家としてなによりも「民族的な統一」がなければ、そして列強に屈しない強烈な「意志」がなければ、東西南北を陸つづきで列強に囲まれているアフガニスタンは国の自立を守りおおせることができなかっただろう。
 また、18世紀に始まる近代国家(ネーション・ステイツ)の確立に向けての世界史的な歩みに照らしてみても、他国の支配を脱しカンダハールに国礎を定めたアフマド・ハーンの果敢な行動は、きわめて先駆的なものであったといえよう。しかし、それだけにアフガニスタンの独立は、オリエント全体の覇権をうかがう列強諸国に大きな衝撃を与えるものであった。領土拡大というむき出しの植民地主義的な野望を抱く国々にとって、アフガニスタンは立ちはだかる障壁と映ったに違いない。
 1839年から始まる英領インドを拠点とする英国によるあからさまな軍事干渉に、若く脆弱な近代国家アフガニスタンは揺れ動く。国をとりまくすべての国境が、他国によって押しつけられ、自民族の分断にも涙をのんで応じなければならなかった。
 どちらの側からも裏切り者とさげすまれ世を去ったアフガニスタンの王シェール・アリーの運命こそ、当時のアフガニスタンのありのままの現実を映し出すものであった。王が北方に逃れ孤独のうちに、バルフで憤死したその年、1879(明治12)年、アフガニスタンは自律的な外交権を英国に奪われる不平等条約の典型であるガンダマク条約を新王ヤアクーブ・ハーンの名の下に結ばねばならなかった。条約の中でうたわれた「永遠の平和と友情」という美辞がどれほど欺瞞に満ちたものであるのかは、その直後に起ったカーブルでの争乱によって明らかとなった。
 1879年はまた、フランスがオリエント支配の権益をエジプトに確立した年であった。植民地支配は近代ナショナリズムの高揚によって裏づけられねばならなかった。「ラ・マルセイエーズ」がフランス国歌となり、7月14日が国祭日とされたのもこの年であった。日本では、この年、東京招魂社が別格官幣社となり、靖国神社と改称された。いっぽう朝日新聞が同じ年に創刊されたのも象徴的な出来事であった。
 読売新聞の創刊はそれより5年早く、1874(明治7)年であり、西周、福沢諭吉、そして箕作省吾の子麟祥らが参加した啓蒙誌『明六雑誌』創刊の年のことであった。また東京日日新聞(のちの毎日新聞)の創刊はさらに1年早く、1872(明治5)年であり、オランダの実質的なインドネシア支配がヨーロッパ諸国によって認められた年であった。それは日本のジャーナリズムが言論の自由を標榜しながらも、近代の国家的な制約をも併せ呑み、国内・国外の、サイード(『オリエンタリズム』)のようにいえば、「力と弱さの組み合わせを前提とする」揺動を見据えねばならなかった時代でもあったのである。
 司馬遼太郎は『坂の上の雲』のなかで、「土俗の感情としてのナショナリズム」という大きくうねる民族的な深層の活力を描き出したが、近代国家を志向したいずれの国も、その生成の途上でこうした多声的な土俗のエネルギーを、やがて単声的な自民族中心的な国家のイデオロギーへと脱構築することを免れなかったのである。民権か国権か、の議論も切迫する軍事的脅威を前にして熟することはなかった。近代とはまるで暴力の渦中より生まれ出た歴史的異体のようにさえ見える。
 日本がアフガニスタンに深い関心を抱くようになったのは、英国とロシアによるアフガニスタンへの露骨な干渉の経移、グレート・ゲームと呼ばれた陣取り合戦の非情な手口が、どこよりもアフガニスタンであからさまに示されていたからである。
 列強の奸智にたけた干渉にもかかわらず、アフガニスタンは決して独立を放棄することはなかった。近代国家としての自立の回復にはなお時間を要したが、極東における大きな事件が、アジアとヨーロッパの両世界に思いもかけない影響を及ぼすこととなった。1904(明治37)年に勃発した日露戦争である。日露戦争はアフガニスタンに干渉した列強の力関係をいっきに変えた。それはアフガニスタンだけではなくバルカン半島の情勢にも量りしれない大きな影響を与えることとなった。歴史の波動は一極からだけでは捉えることはできない。
 1916年、列強の圧力に屈することなく独立を守り抜き、近代化を推し進めた日本に注目したマフムード・タルズィは、オスマン・タナイとアリ・フゥアドの手になる『日露戦史』を翻訳して極東の島国に人々の目を振り向けさせた。「日本人は無から出発して、世界中の花咲く野と牧野を蜂のようにめぐりにめぐり技術という蜜を求めたのである。そして今日、彼らはみずからの専門知識を発揮して、交易を盛んにしている。彼らの特記すべき無形の財産は、ヨーロッパの最善のものを系統的に採り入れながら、日本固有の信仰、習慣、倫理、生き方の精妙な在り方をいささかも変えなかったことに由来している。今日なお日本はその先頭にあって、アジアのあらゆる国の一つのモデルとなっている」と。
 マフムードは、1916年までの激動する世界情況のなかで、日本の動静を熱い想いで眺めていたにちがいない。世界が戦争による駆け引きのなかに己の存在理由を見出そうとやっきになっていたとき、マフムードは、アフガニスタンと日本に橋を渡すことによって、「アジアの平和」(パクス・アジアエ)の実現と共栄を夢みたのであろうか。この夢に導かれて初めて正式な日・ア国交の路線が敷かれたのである。しかし、このひそやかな夢をのせた国交も、第2次世界大戦の苛烈な砲火のなかで途絶えてしまったが、戦前にアフガニスタンに赴いた日本人も、日本にやって来たアフガニスタンの人々も、深く相手の国を愛し、尊敬し、強い絆を育んだ。
 日本とアフガニスタンとが結んだ関係は、1世紀ちかくになるが、互いに困難な時期に、途切れることなく関係を繋ぎとめ、新しい関係の糸を紡ぎ出してきたのは民間の人々と個性ある人々であった。今日の関係は、政治的にも文化的にもけっして細くはない絆で結ばれているが、それも明治、大正、昭和、平成と日本が歩いてきた波乱に富み揺れ動いた歴史時代を通して関係の絆を断ち切ることのなかった人々があったればこそである。
 本書『日本・アフガニスタン関係全史』は、公的な文書や情報だけでは絶対に綴ることのできない生きた両国の往来を、ひたすらにアフガニスタンに注ぎつづけられた熱意によって、インターネットという双方向的な手立てを活用して、ひとりの強烈な個性がなしとげたその努力の賜ものである。
 1863(文久3)年から2005年に渉る日本とアフガニスタンの関係が、終始いかなる憎悪をつくりだす余地すらなかった関係であり続けていることを誇りに思いたい。近隣諸国とは、ブローデルの言葉を借りていえば、「植民地化の後遺症」とでもいうべき障害をひきずりながらでしか「友好」の関係が結べていない現実を省るとき、日本・アフガニスタンの関係史から、今日学ぶべきことは多い。
 関根正男のアフガニスタンへの情熱から生れ出た本書は、これからさらに書き続けられるべき関係の全体史への最初の土台となるべきものであり、さらに多くの人々によって、それぞれに異った視点によって、書き加えられるべき「書き込み帳」として差し出されたものである。
 アフガニスタンは今なお国の復興のさなかで苦闘しているが、数千年の多彩な文化と歴史を背負うこの新生のイスラーム国は、勇敢に自国を守るために闘いつづけたが、他国に武器をもって立ち入ったことはない。家族を愛するこの国の人たちは、攻撃を仕掛けられなければ、誰よりも平和を愛する人々であったし、今はどの国にもまして平和を望んでいる。この国の復興を、どれだけ政治・経済的に、文化的、精神的に支援することができるかは、私たちの人間性(ヒューマニティー)の深さをはかる尺度とさえなるだろう。

2006年5月27日
前田耕作

目次

日本・アフガニスタン関係史(黎明期;国交開設へ;国交開設から敗戦;日本とアフガニスタンを結んだ人々;国交再開からソ連侵攻(1945年以降)
ソ連の侵攻後)
日本・アフガニスタン関係史年表
付録

著者等紹介

前田耕作[マエダコウサク]
アフガニスタン文化研究所・所長、和光大学名誉教授、東京文化財研究所客員研究員。1957年、名古屋大学文学部哲学科(美学・美術史専攻)卒業。和光大学表現学部教授を経て、2003年より現職。専門はアジア文化史、とくに中央アジア。現在はアフガニスタンの歴史・文化の研究に従事

関根正男[セキネマサオ]
1947年東京都葛飾区生まれ。早稲田大学社会科学部卒。共済生協・全労済に勤務。現在、(株)全労済システムズに出向。1975、77、78年にアフガニスタンを旅行してアフガンの魅力にとりつかれる。アフガン情報や、4000頁に及ぶ新聞掲載の記事(テレビ番組、スポーツ欄などを含む)について創刊号からワープロ化し、「モハバット・セキナ」の名前でホームページに掲載している。アフガニスタン文化研究所会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

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