出版社内容情報
これまでの朝鮮通信使研究は使節の交流に重点が置かれてきたとして、使節を遣わすまでの両国の内政の事情が通信使の派遣にどのような影響を及ぼし、どのような結果を生んだかに注目。使行録の丹念な読解から使行員の心情をも探り、善隣外交の内実を検証する。
はじめに
第一章 一六〇七年の回答兼刷還使による刷還と敵情探索
第二章 一六一七年の日本使行と実利外交
第三章 一六二四年の明清交替期の日本使行
第四章 一六三六年の通信使の日本認識
第五章 一六四三年の通信使と日本認識
第六章 一六五五年の通信使と日本研究
第七章 一六八二年の通信使と両国関係
第八章 一七一一年の通信使と朝鮮の対応
第九章 一七一九年の通信使と日本
第十章 一七四八年の通信使と日本への認識変化
第十一章 一七六四年の通信使が見た日本
第十二章 一八一一年の通信使と易地通信
おわりに
江戸時代の朝鮮使節一覧表
参考文献
人名・地名・事項索引
はじめに
十七世紀の韓日関係を論ずる場合、「交隣関係」と「通信使」はそれをもっともよく象徴する言葉として使われてきた。
「交隣関係」とは、中国の冊封を受けた隣国の「国王」同士の対等な外交関係である。朝鮮王朝に先立つ高麗王朝時代から韓日両国間には交隣の関係があった。十四世紀末、中国に漢族により明朝が建てられ、同じ時期に朝鮮半島では高麗王朝にかわって朝鮮王朝が建てられ、朝鮮王朝は中国を中心とする冊封体制に加わることになった。日本では、足利義満が東アジアの冊封体制に積極的に参入することによって、東アジアの外交関係を安定させ、政権の内外に対する威信を高めようとした。
これにより、朝鮮では足利義満を「日本国王」とみなし、国書を送ることになった。ただし、足利将軍からの返書はおおよそのところ、他称は日本国王、自称は「日本国源某」という名乗りがほぼ定着してきた。しかし、朝鮮では日本からの使者を一貫して「日本国王使」と扱い、これは交隣関係では大きな政治的意義を持つことであった。朝鮮国王は中国から冊封された国王であり、日本の権力者が朝鮮からの国書に「日本国王」と記されていることを原則的に認めたことは、両国が対等な交隣関係に立つということであった。
「通信使」とは、対等な交隣関係を持つ国に「信(よしみ)を通ずる」という意味で派遣する使節で、朝鮮初期は日本からの使節派遣に答える意味で「回礼使」または「報聘使」と呼んだ。朝鮮が「通信使」と呼んだのは朝鮮初期の世宗(セジョン)代(一四二八・正長元)からで、室町時代には三回の「通信使」派遣があり、その後も三回計画されたことがあった。
時代が変わって豊臣秀吉が政権を掌握した時にも二度「通信使」が派遣された。一度目は一五九〇年(宣祖(ソンジョ)二三・天正八)、秀吉が対馬の宗氏を通じて朝鮮国王の入貢を求めたので、宗氏は朝鮮に秀吉の天下統一を祝賀する「通信使」派遣の要請へとそれをすり替えて朝鮮を説得して実現させたものである。二度目は一五九二年(宣祖二五・文禄元)秀吉の朝鮮侵略戦争が膠着状態に入って、一五九六年(宣祖二九・慶長元)明の使節が和議交渉のため伏見城を訪問する際に、朝鮮は黄慎(ファンシン)(一五六〇―一六一七)を正使として三百九人の使節団を明の使節とともに「通信使」として派遣したことがあった。
このように、朝鮮は秀吉の侵略戦争の時も、対等な交隣関係の象徴として、日本に派遣する使節には「通信使」という使節名を用いた。しかし、日本が派遣する使節の名称は定かではなかった。朝鮮は、足利将軍からの使節については、日本が中国皇帝から「日本国王」として冊封されたことで「日本国王使」として優遇した。一四四三年(世宗二五・嘉吉三)に九州まで渡日した申叔舟(シンスクチュ)(一四一七―七五)は『海東諸国紀』で、当時の日本のさまざまな使節を「国王使」・「巨酋使」などと区別して接待事例を定めた。足利義政は十七回も国王使を派遣し、十五世紀初めから秀吉政権下で対馬が画策した国王使まで通算すればおよそ六十回の国王使が朝鮮に渡った。このように「日本国王使」の名義で頻繁に使節が朝鮮に渡ったことは、仏教の交流と貿易の利があったからである。
その後の秀吉は、足利政権下で両国の交隣体制が存在していたことは知らなかった可能性が強い。また日本がかつて中国の冊封下にあって、勘合貿易により東アジアの華夷秩序の下にいたことを知ろうともしなかった。それゆえ、対馬の宗氏に命じて朝鮮国王に入貢を要求し、「唐入り」を計画するまでにいたった。朝鮮はこのときも、秀吉の侵略戦争のときも「通信使」として使節を派遣しており、日本との関係は一貫して「信(よしみ)を通ずる」交隣志向であった。
秀吉の侵略戦争を解決する過程で、朝鮮は一時「探賊使」という使節を派遣したり、戦後講和が成立して国交が再開されても、初期の三回は「通信使」という従来の使節名をつけることを渋ったが、その使節の形態は「通信使」と呼んでさしつかえのないものであった。
本書の目的は、「善隣友好の交隣関係」と「信(よしみ)を通ずる通信使」について「通信使」の使行録を通じて、当時の使節の交流を新たな視点からとらえてみることである。
「交隣関係」を標榜して両国間の交渉があった高麗末期から朝鮮初期の状況を見ると、両国間の交渉が行われた背景には「倭寇禁絶」があった。十四世紀の中頃から末にかけて、「倭寇」と呼ばれた主に西日本の海民が朝鮮半島沿岸に出没して、食糧や財産・人までもさらっていく海賊行為が頻繁に起きた。この海賊行為への対策に腐心していた高麗王朝は「倭寇」の禁絶要請のために、度々使節を日本へ派遣した。高麗王朝が滅亡した後、朝鮮王朝も「倭寇」の禁絶要請のために「回礼使」を派遣した。この「回礼使」という使節名は、日本側が派遣した使節に対する返礼の意味しかなかった。ここでは、交隣より「倭寇を厳しく取り締まって隣国に被害がないように要請する」という意味での使節派遣であった。また、秀吉の侵略戦争以前に派遣した「通信使」の意味も、「信(よしみ)を通ずる」よりもっぱら日本から兵禍を被らないよう予防することに意味があった。
これに対して日本が派遣した使節の主要な目的の一つが、高麗大蔵経などの仏典や仏具を請求することであった。それに加えて貿易の利を得ることもできるという、互いに自国の利益を得ることが目的での、いわば「持ちつ持たれつ」の関係であった。秀吉の侵略戦争の戦後処理のために、一六〇七年(宣祖四〇・慶長一二)から派遣された朝鮮の使節も、朝鮮・幕府・対馬が「持ちつ持たれつ」の関係にあったから成立したといえよう。もし両国間に倭寇と対馬が介在しなかったとしたら、朝鮮は交隣を標榜する使節を派遣する必要はなかったと思われる。
これまでの「通信使」研究では、主に政治・外交・文化の面に注目して、韓国の研究者は「通信使」の文化交流に注目し、「通信使」が対馬や幕府の要請で派遣され、「信(よしみ)を通ずる善隣友好」関係を築いてきたという。また、日本の研究者も、「通信使」が日本で行ったさまざまな活動に注目して、その記録を集めることに集中して、多くの史料や研究実績を持つことになった。
だが、「通信使」研究の基礎史料になる使行録を読むと、当時の士大夫であった使臣たちが抱いていた、「信(よしみ)を通ずる善隣友好の交隣関係」に対して、その実態や使臣の本音がどのようなものであったのかが見えてくる。例えば、一七四八年(英祖二四・寛延元)「通信使」の際に、岡崎では使臣が雉(きじ)を珍味とするとの噂を聞き、五月なのに使臣の食材に雉を送った。しかし、使臣は「これは食うにも
味がなく、ほとんど『鶏肋(けいろく)』と同じであった」と本音を認めたが、接待する側はこれを知らず、盛大なもてなしを自慢した。このような盛大なもてなしと、当時の盛大な通信使行列を見物する民衆の熱気だけを見て、通信使は日本で歓迎されたとは言えない。接待を命じられた各藩の財政が苦しい中で、幕府の命令でやむを得ず盛大なもてなしを用意した人々の本音を調べてみることもこれからの研究には必要だと思われる。
本書では、「通信使」をめぐって起こったさまざまな事件を記録した使行録を、紀行文という観点から見て、通信使が交隣外交の場で体験した異文化接触を通じて日本をどのように認識していたかを探ることにした。
内容説明
本書では、「通信使」をめぐって起こったさまざまな事件を記録した使行録を、紀行文という観点から見て、通信使が交隣外交の場で体験した異文化接触を通じて日本をどのように認識していたかを探ることにした。
目次
一六〇七年の回答兼刷還使による刷還と敵情探索
一六一七年の日本使行と実利外交
一六二四年の明清交替期の日本使行
一六三六年の通信使の日本認識
一六四三年の通信使と日本認識
一六五五年の通信使と日本研究
一六八二年の通信使と両国関係
一七一一年の通信使と朝鮮の対応
一七一九年の通信使と日本
一七四八年の通信使と日本への認識変化
一七六四年の通信使が見た世界
一八一一年の通信使と易地通信
著者等紹介
鄭章植[チョンジャンシク]
1949年、韓国生まれ。ソウル教育大学卒業。国際大学日文科を経て、1984年から広島大学へ留学。1990年から韓国・清州大学日文科勤務。現在、清州大学日文科教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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