明石ライブラリー
言語的近代を超えて―“多言語状況”を生きるために

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  • サイズ B6判/ページ数 329p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784750319704
  • NDC分類 804
  • Cコード C0336

目次

第1部 言語的近代の成り立ち(「韓国語」という呼称は、どこからきたのか;“通じる”のに、別の言語/“通じない”のに、同じ言語;国家の名まえが言語の名まえになるとき ほか)
第2部 ことばについて、“われわれ”が語ってきたこと(ことばが“できる”“できない”とは、どういうことか?;ひとつではない“母のことば”;“やさしい言語”“むずかしい言語”とは、どういうことか? ほか)
第3部 言語的近代を超える営み(近代言語学が扱ってこなかった言語;自分の意思で選ぶ言語;日本語を選んだ作家たち ほか)

著者等紹介

山本真弓[ヤマモトマユミ]
1958年大阪府生まれ。大阪外国語大学インド・パキスタン語学科、大阪大学大学院法学研究科を経て、ジャワハルラル・ネルー大学大学院南アジア研究科および神戸大学大学院文化学研究科中退。1995年から97年まで在ネパール日本大使館専門調査員。現在、山口大学人文学部助教授

臼井裕之[ウスイヒロユキ]
1967年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。青山学院大学大学院国際政治経済学研究科国際コミュニケーション専攻修了

木村護郎クリストフ[キムラゴロウクリストフ]
1974年愛知県生まれ。東京外国語大学ドイツ語学科卒業。一橋大学大学院言語社会研究科修了(学術博士)。慶応義塾大学総合政策学部講師を経て、現在、上智大学外国語学部ドイツ語学科講師
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

出版社内容情報

近代が生み出した幻想のひとつ、「一国家一言語」、「一民族一言語」神話を地域研究を横軸、エスペラントを縦軸に、異なる専門領域、フィールドをもつ研究者たちが共同作業によって解体する試み。

はじめに――この本ができるまで(山本真弓)
言語的近代とは、なにか?/南アジアでの言語体験/「人工語」で育てられた赤ん坊の話/地域研究とエスペラント研究――「外部」に居続けるか、「内部」に迎えられるか/近代アカデミズムを超えて/わたしたちの試み

第一部 言語的近代の成り立ち
1 「韓国語」という呼称は、どこからきたのか
ひとつの言語に、たくさんの呼称!/呼称は、視点を表す/愛人(エイン)は、恋人(こいびと)!/宇宙人から見た地球語とは?/自称が分裂しているとき――他称の可能性について
2 〈通じる〉のに、別の言語/〈通じない〉のに、同じ言語
朝鮮語は、日本語の「方言」だった!?/政治が〈ひとつのことば〉を創出する/「数えられない」ものを、「数える」ために
3 国家の名まえが言語の名まえになるとき
「バイリンガル」は、「奇形」だった!/文法は、誰のため?/日本語が日本全国で通じる理由/東亜の共通語を目指して/つくられなければならなかった、日本語
4 ドイツ型ナツィオーンでもフランス型ナシオンでもなく――南アジアのネーション
ヨーロッパという〈他者〉/「ヒンドゥーとムスリムはふたつの異なるネr>8 〈やさしい言語〉〈むずかしい言語〉とは、どういうことか?
9 あらゆる言語は、固有の価値をもつ
新語のつくり方/「ワニ」の動詞形――「ワニる」って、なに?/「国際的」は、非―国際的
10 「ことばの変化」と「ことばの乱れ」は、どう違うか?
言語は必要に応じて変化する/「男」(malino)は「女」(ino)から派生した
11 「翻訳する」とは、どういうことか?
誰のための翻訳か?/「エトランジェ」って、どんな人?――フランス語からの翻訳/翻訳者は創造者である

第三部 言語的近代を超える営み
12 近代言語学が扱ってこなかった言語
手話は、日本語ではない/音声言語に囲まれて――ろう者の多言語性/「身振り・手振り」と「完全な手話」とのあいだ/絶滅しない少数言語/ろう文化への視点
13 自分の意思で選ぶ言語
コトバの「所有権」/書斎で考案された言語/「血と地」から解放されるために
14 日本語を選んだ作家たち
植民地支配下の日本語作家/英語ではなく、日本語で/作家が言語を選ぶとき
15 〈国際語〉概念の解体と〈国際語〉の現実
〈国際語〉は、どこでも通じる?/Englishes――さまざまな英語たち
16 

はじめに――この本ができるまで  山本真弓

 言語的近代とは、なにか?

 近代という単語は、「化」や「的」といった接尾辞をつけ加えることで、「近代化」「近代的」という使い古された日常用語のようになっていますが、言語的近代という用語はあまり耳慣れたものではないでしょう。ヨーロッパ近代は人間とことばとの関係がそれ以前のものと大きく変化した時代でしたが、そののち世界に波及した言語的近代の真っ只中を生きている〈われわれ〉にはその実感はありません。それというのも、〈われわれ〉は昔からたったひとつの、確固たる日本語というものを話してきたかのような錯覚のなかで暮らしているからです。
 けれども、近代以前のヨーロッパでは、ラテン語だけが文法と文字を兼ね備えた「れっきとした言語」であって、それ以外のものは、決まった文法も書き方ももたない「話しことば」でしかない時代が続いていた、と言うと、ヨーロッパから遠く離れた「極東」に住む〈われわれ〉の多くは、びっくりすることでしょう。〈われわれ〉が多くの労力を払ってその習得に努めている英語も、わたしより上の世代の日本人にとっては学問するために避けて通れない言語であったドイツ語が、このほかにも〈われわれ〉の言語観を支えている言語イデオロギーには、次のようなものがあると言えるでしょう。

1 ひとつの国ではひとつの言語が話されており、国家の言語(=国語あるいは国家語)はひとつの国のなかなら、どこででも通じる。
2 方言は言語の下位概念であり、両者は明確に区別できる。つまり、違うことばならば〈通じない〉。〈通じる〉のは、ことばが同じか、あるいは同じことばの方言だからだ。
3 ことばは、客観的(言語学的)基準によって、数えられる。
4 ヒトがもっともよく〈できる〉のは、母語である。母語は自分の意思では選べない。したがって、母語は取り替えることができない。第二言語として習得したことばの能力は、母語話者にはかなわない。
5 ことばが〈できる〉〈できない〉は、客観的に判断できる。ひとつの言語にはその〈全体〉というものがあり、〈全体〉を習得することこそが、その言語について〈完璧〉に〈できる〉ということである。
6 母語はひとつである。バイリンガルのヒトはふたつの言語をまったく同じように〈できる〉のであって、このようなヒトは特殊である。
7 ことばは基本的にみんな同じありようをして