出版社内容情報
ラクー=ラバルト,P.(フィリップ)[フィリップ ラクー ラバルト]
著・文・その他
谷口 博史[タニグチ ヒロシ]
翻訳
内容説明
アウシュヴィッツ以後詩作することは可能か―戦後ヨーロッパの代表的詩人ツェランの後期詩篇から複数の声を聴きとる哲学的エッセイ。
目次
1 パウル・ツェランの二篇の詩
2 日付の記憶(カタストロフ;祈り;崇高;聖人伝;名づける権能;苦しみ;脱自;めまい;盲目;歌;天;赦すことのできないもの)
著者等紹介
谷口博史[タニグチヒロシ]
1962年長崎県生まれ。一橋大学法学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。現在、中央大学法学部准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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tamioar
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ツェランが読みたい。2017/06/03
飛燕
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突如として到来する「存在者が無い」という経験に、日常の言葉は意味を失う、この経験は私の外から一歩も出ることはできない、しかし語るためには私から引き剥がして、他人のようにこれを語らねばならない、そうして「詩」ができる。そのような具合にツェランの詩(ヘルダーリンとハイデガーを意識した2つの詩)を解読するツェラン論。苦痛、祈り、赦し、神等々も主要な論題だが、この私的言語的な問題を独我論や自閉の問題でなく、「孤独の問題」とするのが興味深かった。閉じこもるのが重要なのではなく、開かれるにはどうするのかが問題なのだ。2015/04/29
兵頭 浩佑
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まだ哲学が物語からも詩からも、あるいはその両者でさえ未分化だった時からの、これは学の学としての壮大なサーガである。しかしその壮大さに比して、今書いたはずのものはつねにすでに何も残らない。 全てがこの掌からこぼれ落ちていってしまう、その、何かがこぼれ落ちていってしまった感覚自体をここでの「(意識の)経験」とするならば、我々はずっとこれについてしか考えてこなかった。2024/09/29