内容説明
アメリカ美術はアーモリー・ショウなしに発展したかもしれないと主張することは、若干見当はずれである。事実は、アーモリー・ショウが美術界、つまり芸術家に、コレクターに、画商に、美術館に、そして何よりも一般大衆に深遠な結果をもたらしたということであった。おそらくアメリカの歴史上、最も重要な美術展であり、最も胸躍るものだったことは確かなことであった。歴史に名高い「アーモリー・ショウ」の出発から終焉までを記したドキュメント風の物語。そこには、新しい表現への、新しい芸術の地平への、現代美術の批評への、モダンアートのコレクションへの、画家とコレクターによる、都市への野望と希望と挑戦の姿が散りばめられている。
目次
ザ・ドキュメンツ
新進協会の成功
目論見通りの大騒動
もうすぐパーティが始まる
ボーグラムがおずおずと本性を現わす
後戻りしないアメリカ美術
掘り出し物の美術
階段を降りる無体
だが、二度とやらないでもらいたい
大声のたわごと
無礼な街だ!!
ボストンでうちきりだ
学会でなく協会
大冒険が残したもの
著者等紹介
ブラウン,ミルトン・W.[ブラウン,ミルトンW.][Brown,Milton W.]
20世紀美術史家・画家。1998年2月6日マイアミ・ビーチで死去。第二次世界大戦の軍務の後、25年にわたってニューヨーク大学のブルックリン・カレッジで教壇に立ち、1971年にはコロムビア大学でレオ・スタインバーグ、ジョン・リウォルドとともに先端的美術史大学院の設立に関わり、1979年まで同大学院美術史の専攻長を務めた。同大学大学院教授を退いた後、名誉教授号を授与される。1983年から1987年まで、ウィリアムズ・カレッジ美術館の理事を務め、その間、モーリス・プレンダーカストとチャールズ・プレンダーカストのカタログ・レゾネ出版に関わり、1989年、1990年にはナショナル・ギャラリーの美術先端研究センター教授に就任していた
木村要一[キムラヨウイチ]
1944年(昭和19)年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業後、株式会社美術出版社に入社。『みづゑ』『美術手帖』編集長を経て1989(平成元)年に成安女子短期大学教授に就任。1993(平成5)年、成安造形大学の新設にともない、同大学教授に就任。金沢市立美術工芸大学、同志社女子大学非常勤講師。『美術手帖』編集長を務めるかたわら『現代美術辞典』、『現代美術入門』、『アメリカの美術館』等の編集・執筆、出版プロデュースに関わり、また『カルティエ―ロイヤル・ジュエラーの歴史』、『山口勝弘・映像空間創造』、『今井俊満・花鳥風月』、『今村幸生作品集』、『奥行彦作品集』等の出版をプロデュース。他方で「川崎市民ミュージアム設立基本計画レポート」(大日本印刷CDC事業部)、「都市住宅整備公団入居者募集促進プロジェクト」(電通+都市住宅整備公団)の作成、「キリンプラザ大阪」企画コミッティ、「名古屋国際ビエンナーレ」展、(通称“アーテック”)、「花博写真美術館」等の創設(ともに理事に就任)に関わる。専門分野はアート・マネージメント、近現代アメリカ美術研究および雑誌、書籍の編集とプロデュース(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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