内容説明
承久の変後、孤絶と憂悶の慰めを日々歌に託し、失意の後半生を隠岐に生きた後鳥羽院。同時代の歌人・藤原定家が最初の近代詩人となることによって実は中世を探していたのに対し、後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって近代を超えた―歌人であるうえに『新古今和歌集』で批評家としての偉大さも示す後鳥羽院を、自ら作家でもあり批評家でもある著者が論じた秀抜な日本文学史論。宮廷文化=“詩の場”を救うことを夢みた天皇歌人のすがたに迫る。1973年度に読売文学賞を受賞した第一版に三篇を加え、巻末に後鳥羽院年譜と詳細な和歌索引を付した増補決定版。
目次
1(歌人としての後鳥羽院;へにける年;宮廷文化と政治と文学)
2(しぐれの雲;隠岐を夢みる;王朝和歌とモダニズム)
著者等紹介
丸谷才一[マルヤサイイチ]
1925‐2012。山形県鶴岡市生れ。小説・批評・翻訳と、幅広い分野で活躍。68年『年の残り』で芥川賞、72年『たった一人の反乱』で谷崎賞、74年『後鳥羽院』で読売文学賞、85年『忠臣藏とは何か』で野間文芸賞、88年「樹影譚」で川端康成文学賞、99年『新々百人一首』で大佛次郎賞、2001年菊池寛賞、03年『輝く日の宮』で泉鏡花賞および朝日賞、10年『若い藝術家の肖像』(ジェイムズ・ジョイス)の翻訳で読売文学賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ヴェネツィア
378
英文学者の丸谷才一による後鳥羽院の考察。研究ではなく批評なのだが(その方が自由に発想できるし、語ることもできる)、丸谷の歌に関する造詣の深さには恐れ入るばかり。後鳥羽院の代表歌「見渡せば山もと霞む…」は当然に定家の「見渡せば花も紅葉も…」を想起させるが、私は美意識の問題としてのみ捉えていた。ところが、丸谷はそこに院の帝王としての国見を望見するのである。まさに目から鱗の思いである。また、もう一つの驚きは、承久の変を丸谷は(院は)「悲劇に魅惑され、敗北を思慕していた」と言うのである。まさに卓見と言うべきか。2022/06/09
岡本正行
30
歴代の天皇のなかでも、有数の目立つ天皇。神武天皇は、ともかく、天智、天武、持統、そして聖武、称謙いろいろ多方面に多能多才な天皇様たち。政治的にクローズアップされた後白河、後醍醐と並んで後鳥羽天皇、出家され譲位されて後鳥羽上皇、鎌倉幕府と対立して、天皇様御謀反というありうべからざる事態、結局、隠岐の島に流罪となってしまう。朝廷に反抗して、そのトップを島流しにするとは、北条義時もすごい。君々臣々足らずの典型、勝てば官軍、負ければ賊軍、勝敗、戦闘の厳しいこと、当然なんだけど。あの時代、素晴らしい歌人が多い。2023/03/22
クラムボン
25
歌人としての後鳥羽院を藤原定家と比べる中で、くっきりと炙り出してくれました。共に俊成の弟子であり、お互い歌を認め合う間柄だった。それが新古今和歌集の編纂と承久の変の中で齟齬が生まれ、互いを疎ましく思うようになる。ただ丸谷さんは歌に対する根本的な考えが違うという。後鳥羽院の思い描く歌とは「宮廷における礼儀と社交の為にあり、めでたく詠み捨てられるのが本来の姿である」 対して定家は「歌は純粋な芸術であり、一首の出来栄えにうるさく拘泥する」 歌人としては尊敬し合う二人だが、強烈な批評家精神が仇となったようだ。 2022/06/11
ロビン
22
後鳥羽院の批評家としての能力を高く評価しまたその和歌を「天皇歌のなかで随一」と激賞する丸谷才一が、院の実作を恐ろしいほどの博覧強記ぶりと深い読解能力を駆使してひとつひとつ懇切に解説してゆく。和歌を純粋な芸術として独立させようとした藤原定家と、和歌はあくまで自分が主催する宮廷文化ありてこそのものと考えた院の違いや、独自の折口信夫論、「モダニズム」をキーワードにした文化論と、深く広い一冊。後鳥羽院が承久の乱に際して、自らの敗北という悲劇の運命にむしろ憧れていたのではないかという丸谷の論には吃驚させられた。2022/06/16
nagoyan
19
優。審美眼がないので、著者の評価を鵜呑みにするしかないことを前提にして、実に面白かった。推理小説のように読んだ(正直に言えば、あまりに話がくどくなりそうな箇所は飛ばして読んだ)。感想と言えばそれぐらいなのだが、1973年という、まだまだマルクス主義の影響が大きかった時代に、王朝歌壇にのみ、というか、明らかに後鳥羽院の主催する政治空間と芸術空間の同一性を前提に議論を進める丸谷才一の丸谷才一たるを観るような気がした。これは無論、本書の価値とは無縁ではある。2022/06/06