内容説明
ロラン・バルトは、その初期である1960年に研究的なエッセーを発表して以降、多くの映像評論を残した。『戦鑑ポチョムキン』『イワン雷帝』で知られるソビエトの映画監督エイゼンシュテインの作品のカットを通して映画における意味形成性を論じた「第三の意味」、映像についての記号学的枠組みを構想する「映画における意味作用の問題」をはじめとする映画・映像論、またロベール・ブレッソンやクロード・シャブロルらの作品評や、グレタ・ガルボやチャップリンらの俳優談義を収録し、1970年までの映画におけるバルトの思索の成果をまとめるオリジナル・アンソロジー。
目次
第三の意味―エイゼンシュテインの映画からとった何枚かのフォトグラムについての研究ノート
映画における意味作用の問題
映画のもつ『ショッキングな単位』
対談(記号学と映画;映画について)
右と左の映画―クロード・シャブロルの神話作用
『罪の天使たち』―ロベール・ブレッソンの映画作品評
シネマスコープについて
『ヴェルサイュ』とその計算―サシャ・ギトリの映画作品評
アルクールの俳優
映画におけるローマ人〔ほか〕
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ラウリスタ~
8
サクサクって音が聞こえるくらいにさくさく進む読書。バルトのなかでもわりとあっさりめな文章。実際の映画作品についての言及も多い。『明るい部屋』とかもそうだったと思うけれども、ふむふむと読んで、読んだ後、結局なんだったんだってなると思い出せない本。2014/02/24
あなた
7
バルトのライフワークは、意味=イデオロギーからの逃走=闘争だった。その意味あいでは、ポスト構造主義者だった。エイゼンシュテインをテクストとして扱っているが、彼は映画にあらわれる「線形」に多大な注意を払っている。だから、意味に回収できない「第三の意味」はあながち突拍子でもなく、実はこうした指標にもとづいて、意味のゆらめき=きらめきが語られたのだ。映画とは、線の織物であり、その線のゆらめきによってわたしたちは意味やイデオロギーを加工していくのである。それをデコーディングしていくバルトの手つきはあまりにかろやか2009/08/22
Fumoh
1
ロラン・バルトがエイゼンシュテインの二つの映画『イワン雷帝』『戦艦ポチョムキン』に対して行った分析『第三の意味』が非常に面白かった。第一の意味は、映画のプロフィール(舞台、モチーフ、人物関係など)、第二の意味は一般的な解釈(分かりやすい象徴的意味など)であり、第三の意味は、フォトグラムといって映画の一コマを区切った写真の中に、すべての分析を経た後に生まれる、不可解な意味不明さ(意味の深淵とでも言うべきか)のこと。「意味」を逃れる意味、バルトは「鈍い意味」とも呼んでいる。すんなり解釈できない、不可解な表情(2024/01/03
ずほ
1
意味には3つのレベルがあるという。情報伝達のレベル、象徴的なレベル、そして、<鈍い意味>意味形成のレベル。それは<意味されるもの>のない<意味するもの>。分節言語の外側にあるが、対話のうちにあるもの。それだけでは意図性が保証され得ないが、象徴的なレベルの<自然な意味>の表象と対話することで嗅ぎ取ることができるようになる。俳句に例えた説明はすごくしっくりくる。 「日本の俳句的、表意的な内容を持たない頭語反復的な身振り、意味(意味への希求)が抹殺された一種の傷痕 」 さて分析してみようと思うけど、難しいねえ2014/05/08
よこづな
1
「第三の意味」、それは追加分として生ずる、頑固であると同時にとらえどころのない、すべすべしていながら逃げてしまう意味である。2009/04/13