内容説明
わたしたちは世界史がつい先程まで「善」の通俗化としての残忍な悪と「悪」の通俗化としての残忍な善にとりかこまれていたのだということを忘れるべきではない(解説より)。―文学にとって至高のものとは、悪の極限を掘りあてようとすることではないのか…。エミリ・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネという8人の作家を論じる。
目次
エミリ・ブロンテ
ボードレール
ミシュレ
ウィリアム・ブレイク
サド
プルースト
カフカ
ジュネ
著者等紹介
バタイユ,ジョルジュ[バタイユ,ジョルジュ][Bataille,Georges]
1897年、フランス、ビヨン生まれ。1935年極左知識人を結集してコントル=アタックを結成。1936年、カイヨワ、レリスと社会学研究会を創設。1946年、「クリティク」を創刊。1962年没
山本功[ヤマモトイサオ]
1927年大阪生まれ。東京大学仏文科卒業。元学習院大学教授。1974年没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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彩菜
25
汚穢不純殺人暴力。性と死の禁止を私は守る。それは善の掟、生を保存し死を遠ざけ、私と社会を持続させる。それは理性の掟、死すべき個体としての私の限界。だが私はそれだけの存在だろうか。…私は欲望する。悪を。禁の侵犯を。死と理性が示す限界を超える事を。死により存在が崩れるように自身の限界が崩れ、世界と私が融合し、存在の孤独と不連続が消滅する一瞬を。生と対立する要素を導入した古代の供犠はこの一瞬を創り出したのではなかったろうか。その延長に芸術が、文学があるのではなかろうか。文学とは悪を描く事。それは人の死と不可能。2020/09/06
フリウリ
17
局所的には、カフカに関して「小児性」という概念を用いていることが印象的です。子どもであることを貫き通して世俗に背を向ける、という意味と思いますが、そもそも金儲けや名誉に無縁の「純粋な」文学(/表現)活動は、社交や社会の諸規範や常識から隔たったところにしか発生しないわけで、それを子どものありようと結びつけることは了解できます。ただし、バタイユが求める悪が「至高の」悪であるように、求められるのは「至高の」小児性であり、単に子どもっぽい、子どもらしいということではない。にしても、「至高の」が難しい…。82023/11/20
ラウリスタ~
15
久々に良い本を読んだ。バタイユにはあまりいい印象を持っていなかったものの彼の評論は非常に緻密で納得できるものだった。書評という形をとる本書では文学に書かれた悪を精査するなかで悪とは何かを突き詰めていく。ニーチェの著作を読む時のような高揚感を味わうことが出来た。バタイユの小説は誰もが読めるだけあって、その本質を掴み損ねる可能性が非常に高い。評論は懇切丁寧に議論を進めてくれるのでやっとバタイユの言いたいことが分かった。ある意味では小説の難しさを感じさせられる読書体験だった。2011/09/26
うえ
13
「サルトル自身もジュネの作品の根底にある奇妙な困難さに目をとめている。…ジュネは作品を書いていながら、読者たちと霊的に交通する能力も意図ももっていないということである。彼の作品の制作には、それを読むひとたちを否定するという意味がふくまれている。サルトルもこのことは充分に見てとったが、そこからなんの結論もひき出してこようとはしていない。しかし…作品とよばれるにはふさわしくない…文学とは、霊的交通なのだ。それは、至高の一作者から発して、孤立した一読者の隷属性を越え、そのかなたに、至高の人類へとよびかけるもの」2019/05/22
風太郎
10
文学において「悪」がどのような役割を果たしているのかということを、八人の作家を例に説いています。正直、本の中身を全て理解できたとは思っていません。ただ、この本を読んで思ったことですが、善とは基本的に規則に従う従属であり、反対に、悪とは規則から逃れるものです。善から悪、悪から善へ移るため、その境界を超える瞬間、力が必要であり、人間の心に様々な作用を及ぼすことは想像に難くありません。また、悪に深くつかり、黒々と染め上げられた心は一種の高貴ささえ感じます。なんというか悪の魅力の一面を考えさせてくれた一冊でした。2017/10/27