内容説明
グローバル化の進展につれて、何かにつけて「自己決定」が求められるようになってきた。その背景には、人間は「自由な主体」であるという考え方がある。しかし人間は、すべてを「主体的」に決められるわけではない。実際、「自由な主体」同士の合意によって社会がつくられるという西欧近代の考えは、ほころび始めてきた。こうした「ポスト・モダン」状況にあって我々は、どう振る舞えばいいのか?そもそも「自由な主体」という人間観は、どう形成されたのか?こうした問いを深く追究した本書は、近代社会の前提を根底から問い直す、新しい思想の試みだ。
目次
第1章 「人間は自由だ」という虚構(現代思想における「人間」;よき人間と悪しき人間 ほか)
第2章 こうして人間は作られた(人間的コミュニケーションの習得;コミュニケーションの「普遍性」と「特殊性」 ほか)
第3章 教育の「自由」の不自由(「人間性」教育としての「生きる力」論;「ゆとり」から「主体性」は生まれるか? ほか)
第4章 「気短な人間」はやめよう(主流派としての「リベラリズム」;挟撃される普遍主義 ほか)
著者等紹介
仲正昌樹[ナカマサマサキ]
1963年広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学部助教授。社会思想史・比較文学を専攻。文学や政治、法、歴史などの領域について、アクチュアリティの高い言論活動を展開
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
39
「自由な主体」になるように強制される「不自由」さ、という矛盾について批判しています。近代哲学史を参照することで、自発的な発露としての自然人たる「人間性=自由」を、つくられた人間観として限界づけます。自由とは自然に備わっているものでは無く、自由の限界が示されることで、自由の領域が確保される。限界づけられたことも、アイロニカルに「不自由」と表現しています。浅薄な日本の教育行政に対して嫌味たっぷりですが、本書が読むべきところは、アーレント、デリダの非常に優れた各論がコンパクトに概観できるところではないでしょうか2019/12/20
月をみるもの
14
けっこう前に出た本(2003年発行)なんだけど、その後のサンデルブームに繋がるようなネタもあり、全く古さを感じさせない 。ゆとり教育の胡散くささが、「"自由な主体"になるように強制されることの "不自由さ"」に由来していた、というのはすごく納得。2019/10/12
ネムル
12
アレントからファノン、ルソーからデリダなどと意外なところから現代思想に線を引くのが面白かった。最後に主体性=気短いという点について言及されるが、日に日に加速する現代社会において如何に立ち止まるか、そこに他者を巻き込みうるかは難しい問題である。2018/04/09
翔亀
10
宇野重規が良かった勢いで手に取ったが、これは困った。何でも自己決定という時代に我々はどうすべきかいう問題意識は宇野と共通しているが、両者に何という違いがあることか。両書の作品としての違いだけ述べるが、この本は言葉の使い方が安易すぎる。例えば、保守主義とかマルキストならわかるが、左の●×(人名)とか右の▽□が頻出する。いきなり本人の子どもの頃の体験により好き嫌いを言う。まあ時と場合によるだろうが、アーレントやハーバマスを引用しながら哲学的に「自由」の意味を問い直す文脈で言われると違和感が大きく■582014/01/17
またの名
9
用意されたマニュアル式でない恋愛をさせるべくマニュアルを脱するマニュアルを与えるように、主体的な判断のできる人間を上から育てたり自己決定せよと専門家の意見の中からよく解らないまま選択させる謎の時代。他者との鏡像的な関係のうちでイメージ上の自己が形成される、自由で自発的で自然な人間性なる概念は怪しい等の著者が要約する現代思想の議論を経たら「自己決定と自己責任しか勝たん」社会が到来。素早く決断する主体性とは刺激から反応までの時間が短い短気ではと指摘するザレツキーが精神分析系の歴史家と聞いて、様々な想念が去来。2021/05/31
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