内容説明
『猫は煙を気にする様である。消えて行く煙の行方をノラは一心に見つめている。…「こら、ノラ、猫の癖して何を思索するか」「ニャア」と返事をしてこっちを向いた。ノラはこの頃返事をする。』(「ノラや」より)。百間宅に入りこみ、ふいに戻らなくなったノラ。愛猫の行方を案じ嘆き続ける「ノラや」を始めとして、猫の話ばかりを集めた二十二篇。
目次
猫
梅雨韻
白猫
鵯
立春
竿の音
彼ハ猫デアル
ノラや
ノラやノラや
ノラに降る村しぐれ〔ほか〕
著者等紹介
内田百間[ウチダヒャッケン]
1889‐1971。小説家、随筆家。岡山市の造り酒屋の一人息子として生れる。東大独文科在学中に夏目漱石門下となる。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学などでドイツ語を教えた。1967年、芸術院会員推薦を辞退。酒、琴、汽車、猫などを愛した。本名、内田栄造。別号、百鬼園(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ちゃちゃ
111
「ノラや、ノラ…」哀惜に満ちた呼びかけは、滂沱と流れる涙とともに果てなく繰り返される。いつしか住みついた野良猫が、起居を共にする中でかけがえのない存在になる。突然の失踪に、朝に夕にその名を呼んで悲嘆に暮れる百閒。これほどまでに彼の喪失感が深いのは何故なのか。ノラのことを思うと「可哀想で堪らない」のは、物言えぬ生き物への憐憫の情なのか。生き物の温もりや気配を感じて、慈しみながら生きる日常の喜びと豊かさを知ってしまったからか。老境に入った百閒の癒えぬ淋しさに、こちらまで切なくなってしまう。2月22日、猫の日に2022/02/22
buchipanda3
109
「ノラや、ノラや、ノラや」、あの気難しそうな先生が猫に顔をぐっと寄せて言う。可愛くて堪らないという表情を想像すると思わずニンマリである。ある時期まで先生にとって猫は話の題材という程度だったのだろう。それがノラとの出会いで変わる。その後、先生を大きく狼狽させる出来事があり、日記にさらけ出す素の文章は読んでいて本当に言葉にならなかった。先生は自分は猫好きではなく、ただノラとクルが可愛いと思うだけだと言う。その言い方に先生らしい真っ直ぐな正直さを感じた。晩年まで口癖のようにノラたちを語った言葉が素直に沁み入る。2024/02/05
(C17H26O4)
97
三月二十七日水曜日。唐突に日付が振られ日記のようになる。ノラは木賊の茂みを抜けてどこかへ行ってしまった。以降は胸が塞がれてとても一気には読めない。あの時ノラがこうした、ああした。何と云う事なく思い出しては涙する。新聞広告を出し、折り込み広告を配り、方々探しては違い、連絡を貰って出かけては違いまた違い。「ノラやノラや」名前を呼ばなくなる寂しさ、いないのに呼んでしまう哀しさ、ノラとの会話を思い出し、人目も憚らず落涙する姿に胸が詰まる。生き写しの猫クルとの別れもまた。百閒の止まらぬ涙でできているような本だった。2020/09/13
佐島楓
60
私は犬を飼っているが、今の子をなくしたらこうしていつまでもいつまでも思い返すのだろうなあ。容易に想像がついてしまい、涙が出てきた。わりあいとツンデレな百閒。それゆえにしみじみと烈しい執着心が胸にしみた。2016/02/16
ユメ
49
森見登美彦氏が愛読し、クラフト・エヴィング商會がちくま文庫の装丁を手がける百鬼園先生。愛する作家たちが関わっていると知った先生の作品を、ようやく読むことができた。冒頭からの数話は日常と妖の曖昧な境界線が描かれていて、なるほど『きつねのはなし』などの雰囲気に通ずるものがある。そこから先は一転、ずっと愛猫についての記録だ。ある日失踪してしまった猫を、先生は悲痛な声で「ノラや」と呼び続ける。飼い猫への哀惜だけで数百頁の原稿を涙で濡らし続ける百鬼園先生の心情は、動物を愛する人なら共感せずにはいられないだろう。→2014/12/04