内容説明
「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」。昭和25年、先生は旅に出た。道づれはヒマラヤ山系なる茫洋とした男。役に立つこと、ためになることはひとつもせず、借金まみれなのに一等車に乗り、妙に現実ばなれした旅はふわふわと続く。上質なユーモアに包まれた紀行文学の傑作。
目次
特別阿房列車―東京・大阪
区間阿房列車―国府津・御殿場線・沼津・由比・興津・静岡
鹿児島阿房列車前章―尾ノ道・呉線・広島・博多
鹿児島阿房列車後章―鹿児島・肥薩線・八代
東北本線阿房列車―福島・盛岡・浅虫
奥羽本線阿房列車前章―青森・秋田
奥羽本線阿房列車後章―横手・横黒線・山形・仙山線・松島
雪中新潟阿房列車―上野・新潟
春光山陽特別阿房列車―東京・京都・博多・八代
著者等紹介
内田百〓[ウチダヒャッケン]
1889‐1971。小説家、随筆家。岡山市の造り酒屋の一人息子として生れる。東大独文科在学中に夏目漱石門下となる。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学などでドイツ語を教えた。1967年、芸術院会員推薦を辞退。本名、内田栄造。別号、百鬼園
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
吉田あや
53
「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」初めて読んだのはいつの日だったか、この一文で一気に百閒先生に魅入られた。乗り鉄と云える程鉄道に詳しい訳でも乗ってきた訳でもないけれど、子供の頃から旅は列車が何より嬉しい。旅の移動手段として鉄道を利用するのではなく、その鉄道に乗りたいから旅をする百閒先生。でも一人旅は無理な為、国鉄職員で入魂のヒマラヤ山系君を常に旅のお供として、桃太郎のように堂々と旅立つ。(⇒)2023/08/28
ざるこ
51
屁理屈オヤジの旅日記のよう。何度吹き出して笑ったことか。「阿房列車」は用事もないのに列車で出かける旅のこと。「乗ること」が好きな模様。用事はないけど借金してでもいく。用事がなくて行ったから他人に用事を作られると気に食わない。毎度同行するヒマラヤ山系君との掛け合いがすこぶる可笑しく、ほとんど「はぁ」しか言わないけど会話になっても全く噛み合わなかったりする。傍に居れば「そんなことどうでもいいじゃない」と言いたいけれど独特の偏屈ぶりは百閒さんの思考であって私は勝手に読んでる立場なので責められない。ゆるさがいい。2020/02/20
あんこ
37
読み終わってしまった。たいへん愉快かつ哀愁に満ちた一冊でした。わたしも何となく電車に乗りたくて、ふと百閒先生の阿房列車を思い出したので旅のお供にさせていただきました。解説にもありますが、「記憶の中の視覚の、なんと鮮明なこと」。百閒先生の偏屈さに振り回されて笑っていたりすると、その風景描写の繊細さに驚かされます。東北地方のことも描かれていてうれしくなったり。そして何と言っても、偏屈な百閒先生に同行させられる「茫洋」としたヒマラヤ山系君のやり取りの味わい深さ。お見事でした。2014/08/20
nao1
23
昭和26年初出の元祖乗り鉄小説。「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」。線路は巨大な楽器の絃、峠は絃を支える駒、レールの音や乗客の呼吸も巨大なソナタの一部であるという壮大華麗な名文だが、食堂車でお酒飲むのがなんともいえない楽しみのようだ(笑)同行のヒマラヤ山系君とのかみ合わないとぼけた会話、突然アンパン食べたり、池の鯉の悪口書いたり、汽車と関係ない部分がしつこいほど多く、それがまた面白い。一方、風景の繊細な描写の文学的格調高さにはうならされる。とにかく百けん先生は稀代の変人。2015/11/23
羽
21
なんにも用事はないけれど、汽車に乗ってどこかへ行ってみようと思う。旅費は人に借金することにして、切符を買って汽車に揺られる。目的地に着いてもなんにもすることはなく、また汽車に乗って帰るだけ。それが阿房列車の阿房列車たる所以である。東京の上野から北は青森、南は鹿児島まで、同行のヒマラヤ山系くんと、窓外をぼんやり眺めたり、ホームで二時間半も乗り継ぎの汽車を待ったり、九日間かけて東北を一周したり。そういう欠伸の出そうな旅をいつかしてみたいと思う。2020/03/29