出版社内容情報
世界―有限性―孤独 フライブルク大学講義1929/30年冬学期。『有と時』第12節で示唆した退屈について徹底的に考察する。
目次
予備考察 この講義題目のいわゆる一般的説明から始めてこの講義の使命とその根本姿勢とを述べる(哲学(形而上学)の本質を規定するためのいくつかの回り道と形而上学を直視することの不可避性と
哲学(形而上学)の本質における両義性
世界、有限性、単独化についてすべてを含み込むという仕方で問うことを形而上学と呼ぶことの妥当性の理由づけ。「形而上学」という語の起源と歴史)
第1部 われわれの哲学することの一つの根本気分の呼び覚まし(一つの根本気分の呼び覚ましという課題と、われわれの今日の現有の一つの覆蔵された根本気分の暗示;退屈の第一形式=或るものによって退屈させられる;退屈の第二形式=或るものに際して退屈すること、と、それに帰属している暇つぶしの気晴らし ほか)
第2部 深い退屈という根本気分から展開されるべき形而上学的な問いを実際に問う。世界とは何であるか?という問い(深い退屈という根本気分から展開されるべき形而上学的な問い;世界への問いとともに、形而上学的に問うことが始まる。探究の道とそれの諸困難;比較考察の開始 ほか)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
34
24
解釈学的現象学にとってまず第一に必要なことは、存在論的なものが存在的な仕方であらわになっている現象をうまく見出すことである。『存在と時間』では、ハイデガーによってそうした特権的な現象として選ばれたのが不安という気分であった。この講義録では200頁以上に渡って、従って主著におけるよりはるかに周到な分析が退屈という気分に加えられている。人間が特異な存在者であるのは、記号論的な網の目を通して世界を先取的に了解する動物だからというだけではなく、そのような了解を宙吊りにする情動性にも開かれた動物だからである。2017/06/18
asukaclaesnagatosuki
3
殆ど未読。前半は「退屈」分析が収録されており、『存在と時間』の現存在分析におけるdas ManのBefindlichkeitの態様としての「空談」等の頽落分析と近似性が見出せるのではないかと思うが、検討してみないとわからない。生前に今村仁司先生がベンヤミン論のなかで倦怠論を展開していて、ハイデガーの退屈論と比較してみたら面白いのではと思った。ハイデガーは決然と「田舎に留まる」農夫のようなメンタリティの持ち主ゆえ、フラヌールとして都市で道に迷うことに価値を見出すベンヤミン(コメントに続く)
N.H
1
最高に暇なバイトの間に退屈について考えさせられました。。。2014/04/07
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- 和書
- 保健室 〈62号〉