内容説明
外形だけを風変りに表わしたものも、書ではない。アート書道のブームは、「書の否定」なのではないか。書とは、造形芸術ではなく、教養なのだ。すぐれた書は、その一字一句から、作者の人柄・品格が感じられる。書家である著者は、それが歴史に対する深い認識によって裏づけられたものと主張する。
目次
第1章 肉筆で書くということ(消えゆく肉筆;肉筆は文化である ほか)
第2章 「型」と個性(自分らしく書くことは個性なのか;「創作」の正体 ほか)
第3章 すぐれた書は、何がすぐれているのか(思索の蓄積―書論;書に表わされた「人と為り」 ほか)
第4章 身体作法としての書道(身体で覚える;全身を使って書く ほか)
第5章 「書を交わす」という文化(揮毫をする政治家たち;東洋的教養―広田弘毅と張作霖の場合 ほか)
著者等紹介
松宮貴之[マツミヤタカユキ]
1971年、滋賀県生まれ。書家。書論、日中文化交流史を専門とし、現在、佛教大学文学部兼任講師(書論・書道実技・美術史担当)。国際日本文化研究センター共同研究員。読楊会会員。京都寺町「ギャラリー知」専属アーティスト。中国人書法家、朱剛氏とともに『當代書法二人展』を国際的に開催する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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けいこ
38
タイトルの答えはいまひとつなのだけれど、本当に勉強になった。どのような字を書くかという以前に、観察する力。臨書の大切さ。中でも究極の型はやはり王羲之。ただし、「ただ写しました」ではただの体験にすぎず、これを個人の経験に結びつけられなくては意味が無い。徹底した臨書と観察のくりかえしの先に真の個性というものが生じる。先人の知識、精神に敬意を払う。歴史に対する深い認識が、すぐれた書に繋がる。技法よりも精神というのが『道』が付く所以なのだろう。深い。日々精進しなければ。2022/04/03
ひろ☆
18
書道やったことないけど、書いてみたくなる。型や基本があって、そこから、その人の特徴が出てくる。2016/05/27
きさらぎ
6
実際に書を嗜んでおらず、もっぱら鑑賞物として「書ってどういうものなんだろう」と思って本書を手に取ったレベルの私などには、書家である筆者が「あるべき書道の姿」を切々と訴えている前半はやや訓戒臭を感じてしまうのだが、まだ40代で書の現場にある著者の熱意はひしひしと伝わってくる。書は「歴史と伝統=型」であり、「達意」であって、アートやスポーツではない、というのが基本姿勢かと思う。後半は具体的な書の話になるのでどちらかというと素直に楽しめる。光明皇后の「楽毅論」の書写について述べた部分など面白かった。2016/03/30
jima
6
「書く技術より、まずは見る目が大切。」「臨書の大切さ。」「捧げる対象なくして、書は成立しない。展覧会で入賞するための作為を持って書かれた文字、誰も読めないような文字、筆文字風の文学、これ見よがしに難解な技術を駆使して書かれた文字などは、本来の書の主流からすれば、本末転倒。歴史や先人達の思いに対する冒涜」そんな言葉が印象に残った。王羲之の「蘭亭序」、欧陽詢の「九成宮」そこから出発してそこに帰る。2012/12/11
fukura
1
書の歴史興味津々2016/08/27