出版社内容情報
はじめに
幼いころから性虐待を受けて育った女性が記憶と人生を回復していく物語
この物語は一片のうそも混じらないすべてがほんとうのことです。ちかごろは残虐な事件や幼児の虐待が話題になっており、専門家がさまざまな角度から意見を述べていますが、もっともベースの部分でありながら、論じにくいものに、加害者の成育歴や親の愛情の問題があります。この部分はデリケートなのですが、踏みこんでいかなければならないことと思われます。
物語のモデルとなった女性は、犯罪と無縁の市民として善良な日々をおくっていますが、赤裸々に語られた真実から、子供を愛情をもって守り育てるという機能を果たしていない家庭に育つことが心身におそろしい影響を与えるものだということを考える無数のヒントをよみ取っていただければと思います。
このごろではトラウマというものの存在が知られるようになりましたが、じつを言うとトラウマのほんとうの怖さは、怖ろしい記憶を抱えながら生きるつらさだけではなく、記憶をなくし感覚を麻痺させ、時には性格が変わったように見えてしまうこともあることです。トラウマはふしぎなことに、近親姦による被害でも、戦争によるものでも、あの神戸大震災でも、ごくおおまかにいって同じような症状があらわれるようなのですが、幼児期虐待、なかでも性虐待は愛情にかかわる特別な器官への攻撃なだけに、心への影響は苛烈というよりほかありません。
筆者は、トラウマや幼児期の虐待のどのような知識も持ち合わせていませんでしたが、ある偶然のきっかけから、モデルになった女性の数奇な運命の話に耳を傾けるようになりました。今では、それを天の配剤と呼ぶべき運命的なものと感じています。
はじめは驚きとともに言葉を失って聞いているだけでしたが、やがてさまざまな勉強をしながら原稿を書いていくうちに、成人期以降の彼女の人生に起こる多くのことに、トラウマが因縁していることがわかってきました。女性は必死に生きてきました。なんとしてでも幸福になりたいと念じて、もじどおり七転八倒(しちてんばっとう)の人生を歩んできました。しかし、女性の人生につねに影のように寄りそっていたのは、虐待によるトラウマでした。トラウマというのはそれほどおとなしいものではありません。影どころか、まるで女性がしあわせになることを許さないかのように、人生の主調音となって騒ぎたてます。なだめて手なずけるのは容易なことではありません。
女性は老後の人生がいくぶんか視野に入ってくるような年齢にさしかかっていますが、虐待の後遺症が完全に癒えたわけではなく、遠い数十年も昔のことが今だに尾をひいていることは、筆者にとっても女性本人にすらも大いなる驚きです。それほどに幼児虐待というのは破滅的な力をふるって、精神と人生とに禍根をもたらします。
もしかするとこの物語はあまりにも奇抜で突飛な話と受けとられてしまうのかもしれませんが、それでいて幼児期虐待のトラウマの普遍性をそなえています。筆者は女性からすべてのことを書いてほしいと頼まれました。自身にまつわるよいことも悪いことも洗いざらい書いてほしいと。筆者としては、彼女の人生を写すとともに、症状を克明に記しておくことにも何かしらの意味があると思ってトラウマ(trauma=心的外傷)が無惨に心を砕いていくさまを描き出してみました。もちろんのこと幼児期に虐待を受けた人すべてがモデルの女性のようになるわけではありません。
女性は自分の身におきた悲劇を人々に知ってもらうことにより、今もどこかの社会の片すみでおきていると思われる虐待の被害者が一人でも救われたらと願っています。それが本書を出したいと願った筆者とモデルとなった女性の一番の動機です。……
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この物語にとりかかるにあたって、このような悲劇は二度と起こってほしくないということが、完成を願う動機の一つだった。共同作業の途中から記憶を回復していくことが治療行為そのものであることを知ったわけだが、井戸端的感覚から抜けきれていない自覚のない治療者にさとさんはよく信頼を失わずにいてくれたものと思う。困難もあるのにはあったのだが、長い目で見ればさとさんが劇的に変貌した部分も多かった。その目撃者となれたことは、望外の至福である。そして人間のもつ神秘的な奥行きの深さにあらためてうたれた。筆者にかんして言えば、さとさんとつき合い始め、原稿を書き上げてなお虐待問題にはまりっぱなしである。周りのものから「またその話?」とうとんぜられた。人がぎりぎりの悲劇に遭遇した時に、脳が演じるアクロバット的な防衛機構が、不思議な心の現象となってあらわれ、それがセロトニンなどさまざまな脳内物質とのかかわりの中で大脳生理学的にも、現在実証されつつある。人間の適応力は負の環境においていっそう凄ましく発揮される。アメリカでは、虐待問題への志のあるなしにかかわらず、多重人格障害などのあまりにも不思議な現象に研究者が大脳生理学のそうしたジャンルになだれこんでいると聞く。多重人格障害も虐待によって起こる症状である。
それで私自身について何か変化があったのかと言えば、人間の許容基準がぐんと広まったということである。とりあえず人を愛せる能力があればよいのではないか。人を愛せる能力があるというのは、他人に自分を愛させようとすることと違い、意識するとしないとにかかわらず親から愛されて育ったということである。母の愛は命の基礎である。もしもそのような環境がなかったら、母でなくともできるだけ安定して愛し、甘えられる幼年期の愛着関係を結べるようにしてあげなければならない。異性の愛し方も親子関係が基本になっていることが多い。さとさんの壮烈な人生が体を吹き抜けていった現在の私には顔の色を黒くしてわがままなことをほざいている少女を見ても、ママの胸に頭をこすりつけて甘えている赤ン坊を見ても、よかったね、愛されてるのね、としか思えない。愛は生きるものの祝福である。
それでいて、さとさんの物語をふり返ってみると、いったいこんなことがあってよいのだろうかと今だにぼうぜんとたたずむ思いがする。ある意味でこのような話は人類の埋ずもれた裏面史めいた話なのではあるまいかと思う。
「私らってとても純粋なんだよ」とさとさんは言っていた。たしかにそうだ。清流に住む鮎(あゆ)のような傷つきやすさとある意味でのもろさは若者のそれよりももっと清らかだ。たとえそれが児童期虐待に必然するものであっても、純粋さだけは永遠に失わないでほしいものと思う。(エピローグより)
内容説明
PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が最近よく使われる。虐待や大きな事件、災害など耐えがたい心理的ストレスを受けた人に生じる精神的後遺症。悪夢の一場面が思いがけない瞬間に突然よみがえるフラッシュバック(記憶の再体験)に苦しめられ、不眠や集中力低下、倦怠感、未来に希望が持てないなど、それが生活の悪循環となって日常生活を送るのが難しくなる。人にとっては死を意識するほどの恐怖感を持つこともある。本書は、性虐待を幼少期に受けた女性が、かかえこむことになった“心の闇”との苦闘の半生と、その心の軌跡を辿る衝撃ドキュメント。
目次
水底の記憶
暴れる父
父の女
母の折檻
猫を焼く
養護学校
兄にされていたことの意味
妊娠
家族会議
奇妙な割烹店
結婚の向こうに立ちはだかるもの
夫がサラ金に借金、別居へ
小物製作会社を設立して代表になる
姉の秘密
告発
マッサージ師との幸せな日々
かき立てられた恐怖の記憶
豊頬の白い顔
エピローグ
資料・自動虐待の防止等に関する法律
著者等紹介
高橋三恵子[タカハシミエコ]
千葉県に生まれる。早稲田大学文学部卒業。団地新聞「ファミリー」に十数年間、女性の伝記を連載のほか、介護ジャーナリストとして活躍中である
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
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