出版社内容情報
天才と呼ばれ、
喝采を浴び続けた男の光と影
10人きょうだいという特別な環境に生まれた。
母親の病が発覚し、プロになろうと奮起した。
プロになっても度重なるケガに悩まされた。
1人になると自然と涙があふれ出ることもあった。
それでも、小野伸二は笑顔でボールを蹴っていた。
44歳、小野伸二が決断をした。
プロサッカー選手からの引退を発表した。
小野伸二と言えば、「天才」と表現されることが多い。
繊細なボールタッチに、華麗なトラップ、受け手に優しいスルーパス。
「楽しむ」ことをテーマに、彼はプロサッカー人生を全うしたが、
度重なるケガにも苦しんだ選手生活でもあった。
知られざる小野伸二を余すところなく書ききった初の自著となる。
小学校低学年のときに、友だちのサッカーの練習についていった。
そこでサッカー少年団に入るという決断をするのだが、月謝が2000円だった。
小野少年はそこで逡巡した。「親に言ったら、ダメっていうだろうな」。
10人兄弟という家庭環境のなかで育った小野は、
生活には苦労はなかったが習い事をする余裕はなかった。
しかし、「入ってしまえ!」と入団申込書を自筆で書いて持っていった。
小野は言う。
「僕の拙い字を見た当時の小野コーチという同姓の方が自宅に来てくれて、
この子にサッカーをやらせてあげてください。月謝やかかるお金は
わたしが負担をします、と言ってくれたんです」
幼少のころから、様々な人に支えられて、
日本を代表するサッカー選手になった。
天賦(GIFTED)の才能が本当にあるのか、それは僕にはわからない。
人と違う視野、人と違うキック、人と違うトラップ。
それが努力の賜物か、僕だからできたのか?
僕自身は持って生まれたものだと思ったことはない。
もし、何かを与えられるものがあったとしたら、
それはやっぱり「人」なんだと思う。
出会いを与えられ、そこにチャンスが生まれ、今の僕がある。
そのことだけは決して忘れないでいようと思う。
そして、みんなに伝えたい。
ありがとう!と。
内容説明
天才と呼ばれ、喝采を浴び続けた男の光と影。10人きょうだいという特別な環境に生まれた。母親の病が発覚し、プロになろうと奮起した。プロになっても度重なるケガに悩まされた。1人になると自然と涙があふれ出ることもあった。それでも、小野伸二は常に笑顔でボールを蹴っていた―。
目次
1987年 8歳 もうひとりの小野さん
1989年 10歳 カーテンの向こう側
1991年 12歳 泣ける喜び
1993年 14歳 国士無双
1994年 15歳 ウズラの卵
1994年 15歳 布団の下の財布
1995年 16歳 大瀧先生
1998年 18歳 ダービー免除
1998年 18歳 1万円
1998年 18歳 靴ひも
1999年 19歳 消えた映像
1999年 19歳 ヤモリ
2001年 21歳 アッキー
2002年 22歳 PK戦
2002年 22歳 日韓ワールドカップ
2003年 23歳 愛のある批判
2004年 24歳 ザ・キャプテン
2005年 25歳 みっちゃん
2006年 26歳 真っ赤
2006年 26歳 戦犯〔ほか〕
著者等紹介
小野伸二[オノシンジ]
1979年9月27日生まれ、静岡県沼津市出身。10人きょうだいで、6番目の子(五男)。幼少の頃からサッカーを始めた。13歳のときにU‐16日本代表に初選出。1998年に、清水商業高校から浦和レッズに入団し、同年のフランスワールドカップに日本代表史上最年少で出場を果たす。2001年にはオランダのフェイエノールトへ移籍。同年UEFAカップ優勝を果たす。2005年まで在籍。その後は、浦和レッズ(復帰)、ドイツのVfLボーフム、清水エスパルス、オーストラリアのウエスタン・シドニー・ワンダラーズFC、北海道コンサドーレ札幌、FC琉球でプレーしたあと、北海道コンサドーレ札幌に復帰した。日本代表としては56キャップ。フランス、日韓、ドイツと3度のワールドカップに出場した。FIFA世界大会、UEFAクラブ国際大会のすべてに出場した唯一の日本人選手でもある。卓越したテクニックでサポーターのみならず、多くのプロサッカー選手に影響を与えた日本サッカー界のレジェンド。プライベートでは2女の父でもある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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