ヘンリー・スティムソン回顧録〈下〉

  • ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません。
  • サイズ A5判/ページ数 416p/高さ 22cm
  • 商品コード 9784336061492
  • NDC分類 289.3
  • Cコード C0022

内容説明

パールハーバーから原爆投下へ―アメリカはいかにして決断を下したのか。セオドア・ローズヴェルト、タフト、フランクリン・ローズヴェルト、トルーマンら歴代アメリカ大統領との生々しいやりとり、チャーチルやスターリン、ムッソリーニら各国要人との息詰まる駆け引き、激動する世界の渦中で分裂の危機に瀕したアメリカ―当事者だけが語りうる証言の数かずが歴史の舞台裏を明らかにする。

目次

第3部 危機の時代(武装を求める;一年目;疑惑の谷;戦争始まる;軍隊と大戦略;戦時中の陸軍;全面動員への取り組み;陸軍と海軍;陸軍と大連合;平和の始まり;原爆と日本の降服;原爆とロシアとの協調;公職最後の日々)

著者等紹介

スティムソン,ヘンリー・L.[スティムソン,ヘンリーL.] [Stimson,Henry L.]
1867.9.21~1950.10.20。アメリカ合衆国の政治家。タフト政権下で陸軍長官(1911~1913)、クーリッジ政権下でフィリピン総督(1928~1929)、フーヴァー政権下で国務長官(1929~1933)、フランクリン・ローズヴェルトならびにトルーマン政権下で陸軍長官(1940~1945)など数々の要職を歴任、20世紀前半期のアメリカ合衆国のさまざまな政策決定に深く関与した。1945年9月陸軍長官を退任、マックジョージ・バンディの助けを借りて回顧録を執筆した。1950年83歳で死去

バンディ,マックジョージ[バンディ,マックジョージ] [Bundy,McGeorge]
1919.3.30~1996.9.16。アメリカ合衆国の政治学者。ケネディ政権、ジョンソン政権下で国家安全保障担当大統領補佐官(1961~1966)を務め、キューバ危機、ヴェトナム戦争などアメリカの安全保障政策に深く関わった。大統領補佐官辞任後は、フォード財団理事長、ニューヨーク大学教授などを務めた。1996年77歳で死去。父は、スティムソンの特別顧問のハーヴェイ・バンディ

中沢志保[ナカザワシホ]
1955年長野県生まれ。津田塾大学大学院国際関係学研究科博士後期課程修了。博士(国際関係学)。現在、文化学園大学現代文化学部教授。専攻、国際関係学・国際政治史

藤田怜史[フジタサトシ]
1981年千葉県生まれ。明治大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(史学)。現在、明治大学文学部兼任講師。専攻、アメリカ現代史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

この商品が入っている本棚

1 ~ 1件/全1件

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。

BLACK無糖好き

14
ヘンリー・スティムソンの主な略歴は、タフト政権下で陸軍長官、クーリッジ政権下でフィリピン総督、フーバー政権下で国務長官、ルーズベルトおよびトルーマン政権下で陸軍長官(1940-45)。20世紀前半期アメリカの政治・外交の中枢で要職を務めた人物の回顧録だけあって重みがある。特に陸軍長官として、日本への原爆投下の承認に至るまでの論考は読んでて辛くなった。又、原爆の管理に関していかにソ連と協調するべきかを大統領ヘ提言した覚書など、将来の国際情勢をどう見ていたかが垣間見える点も興味深い。2018/09/03

ジュンジュン

9
首相就任時のチャーチルの言葉「私のこれまでの人生は、この時この瞬間、この試練のための準備に他ならなかった」。1940年、陸軍長官に就任したスティムソンも同様に感じたと思う。下巻は、彼の40年に及ぶ公職生活の集大成と言える、40~45年の記録。彼はブレない。目的はただ一つ“勝つ“こと、そのためにはあらゆる布石を惜しまない。だから政策は柔軟性を持つ。原爆、対ソ連、セクショナリズム、戦後処理…困難な問題にも彼はブレない、ただ勝利の為に。一刻も早い勝利こそが、被害と悲劇を最小限度に抑える最良の方法だと信じて。2022/03/18

外部のウェブサイトに移動します

よろしければ下記URLをクリックしてください。

https://bookmeter.com/books/11971998
  • ご注意事項

最近チェックした商品