内容説明
「わたしたちは神が命じたから、道徳的に行動する義務があると考えるべきではない。わたしたちは、道徳的に行為すべきことを、みずから“内的な”義務として考えるからこそ、こうした法則が神の命令とみなされるようになったのである。」最難間の書物をついに完全読解する。
目次
第1章 純粋理性の訓練(独断的な使用における純粋理性の訓練;論争的な使用における純粋理性の訓練;仮説についての純粋理性の訓練;理性の証明についての純粋な理性の訓練)
第2章 純粋理性の基準(わたしたちの理性の純粋な使用の究極的な目的について;純粋理性の究極の目的を規定する根拠となる最高善の理想について;臆見、知、信念について)
第3章 純粋理性の建築術
第4章 純粋理性の歴史
著者等紹介
カント,イマヌエル[カント,イマヌエル][Kant,Immanuel]
1724‐1804。ドイツ(東プロイセン)の哲学者。近代に最も大きな影響を与えた人物の一人。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のいわゆる三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における「コペルニクス的転回」を促した。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルとつながるドイツ観念論の土台を築いた
中山元[ナカヤマゲン]
1949年生まれ。哲学者、翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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壱萬参仟縁
59
開化とは、身につけていなかった 熟練(傍点)を身につけること。才能は、表現されるのを求める衝動をそなえているので、訓練は才能の養成には消極的。たいして開化と教説は、〔才能の養成〕に積極的に貢献(19頁)。実践的な自由というものは、経験によって認識する。実践的な自由とは、自然の原因から行動する。理性が意志を規定する原因となること。たいして超越論的な自由は、理性が感性界で行動規定する原因から独立したもの。現象の系列を始める原因となるのを求める(173頁)。2022/07/27
かわうそ
46
ついに最終巻にたどり着きました…… 『この純粋理性の哲学はあらゆるアプリオリな純粋認識について、理性の能力を研究する予備学であるか(予備的な演習)……この予備学は批判と呼ばれ』P241 この本の目的は理性の能力を研究するためでした。理性の能力を研究するという目的のために、まずは土台となる感性と知性を探究してきたわけです。そして、その理性の能力という山頂を目指しているその道中で、感性のアプリオリ的な形式として時間と空間であること、また知性が概念において統一するものであることが示されたわけです。2023/01/05
ころこ
42
最終巻はカントが優しくみえます。これまでは否定的な言説によって限定されていたのが、最後になって周囲の風景が開けたように「建築術」や「歴史」を語り出します。しかし、どう好意的にみても、それにつれて文章の力は弱くなってきた印象は否めません。否定することで逆説的に肯定を導くというのは物自体からはじまって前巻の無限判断など、一定のパターンによって繰り返されている本書のクセのようなものです。このことはカントの問題というよりも、ヨーロッパ思想が抱えている神学的な、なかでも否定神学的な問題の解決方法よると思います。2022/05/24
かわうそ
34
「そしてわたしたちは、神が現実存在するという教えは、このような理論的な信念の一つであることを認めねばならない。」213 人間の経験から必然性を導き出すことは決してできないということがカントの念頭にある。しかし、道徳とは彼にとって必然的で完全なものでなければならないのである。そうなると、必然的に神が現実存在するという信念が我々に植え付けられることを認めなければならないということなのだろう。そもそも純粋理性では神がいるのかという経験を超えたものを問うこと自体が越権であり、ナンセンスな問題だと結論づけられた。2024/10/25
朝乃湿原
11
第1巻から約5ヶ月をかけて全巻読了した。読みやすいといわれる光文社古典新訳文庫の『純理』であったが、難解なのは変わらず、最後まで骨の折れる読書となった。カテゴリーと図式の説明から整理が追いついていないので、機会があれば再読したい。最終巻ではカントの哲学観が知れて良かった。P160「すべての哲学は、道具(オルガノン)として認識を拡張するために役立つものではなく、訓練として、限界を設定するものとして役立つのであり、真理を発見するためではなく、誤謬を防ぐという控え目な功績をもたらすにすぎないのである」2024/05/09