内容説明
ドゥルーズ哲学の創造の原理が、『シネマ』の緻密かつ明快な読解から明かされる。映画という芸術の新しさは、いかにして哲学の新しさへと跳ね返るのか?ドゥルーズに伏在する「言葉と物」の二元論から、今世紀の日本の批評を導いてきた「否定神学批判」の限界に迫る、『非美学』の著者のデビュー作が文庫化。黒嵜想、山本浩貴(いぬのせなか座)との解説座談会を追加収録!
目次
第1章 映画と哲学、ベルクソンとドゥルーズ(『シネマ』と映画;ベルクソンにおけるイメージと運動 ほか)
第2章 運動イメージ―感覚‐運動的に思考する映画(運動イメージの分化―宇宙の構築;運動イメージの種別化―主観性の物質的アスペクト ほか)
第3章 運動と時間(運動から時間へ?―ランシエールの『シネマ』批判をめぐって;零次性としての知覚イメージ―物の知覚 ほか)
第4章 第一、第二の時間イメージ―視‐聴覚的に思考する映画(結晶イメージの境位―知覚と記憶の同時性;過去の共存と現在の同時性―「脳」と「宇宙」の新しい意味 ほか)
第5章 第三の時間イメージ―ひとつのおなじ結論の三つの異なるバージョン(私に身体を与えてください―瞬間に持続を導入する;偽なるものが力能になるとき―『シネマ』の物語論 ほか)
著者等紹介
福尾匠[フクオタクミ]
1992年生まれ。博士(学術)。批評家、哲学者(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
1 ~ 1件/全1件
- 評価
本屋のカガヤの本棚
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
あーしぇ
2
ベルクソンはシンプルで論を(なんとか)追えるけれども、肝心のドゥルーズになると種々の概念が錯綜してしまい、「ゼロから読む」ことすら難しいのかもしれないと、自分のアタマのカタさにしょんぼり。 とくに時間イメージが頭の中で構築できず、後半、一文一文を読み進めるのに、とても時間がかかりました。リベンジしたいけれど、さきに『非美学』も読んでみたいんだよなあ。というか、それを読むためにさきに本作を読んだのだけれども⋯。2024/10/26
げんさん
1
脱中心化された運動は、規範的な運動に対して「異常な」あるいは「逸脱した」運動と呼ばれ、これは「時間の直接的な現在化」を可能にする。つまり時間イメージとは、運動の否定ではなく、ましてや停止などではないということだ。そして逸脱した運動は、映画を、空間の整合的な把握を不可能にする「つなぎ間違い」で満たす2025/01/08
Go Extreme
1
映画と哲学ーベルクソンとドゥルーズ: シネマと映画 ベルクソンにおけるイメージと運動 運動イメージ―感覚‐: 分化―宇宙の構築 種別化―主観性の物質的アスペクト 全体とフィギュールの思考 運動と時間: 運動から時間へ 零次性としての知覚イメージ―物の知覚 眼がスクリーンになるときー運動と時間 第一、第二の時間イメージ: 結晶イメージの境位―知覚と記憶の同時性 過去の共存と現在の同時性 第三の時間イメージ: 私に身体を与えてください―瞬間に持続を導入する 偽なるものが力能になるとき―シネマの物語論2024/09/13
かずま
0
むずい、途中まで。再挑戦したい2025/04/01
sansdieu
0
必ずしも読者は読んでいる必要はないと述べて、ドゥルーズ『シネマ』を読んでいく。だが、しかし、ドゥルーズを読んでいないと、どこまでが筆者による『シネマ』の説明、解釈なのか、そしてどこから新たに筆者の思想が始まっているのかがわからない。その一方で、筆者の文章にその内容いかんにかかわらず、読者を恍惚とさせるほどの力が最初から最後まであるわけでもない。時事問題に対して何か有力な解決の糸口を提供してくれるわけでもない。読者に内在を強いるそういう本だった。2025/01/27
-
- 和書
- 骨・関節疾患 (普及版)