内容説明
社会に対して芸術のできる“働き”とは何か?現代演劇の旗手、チェルフィッチュの岡田利規が書き下ろす、演劇の根源的な幹を抱きながら、新しい場所に辿り着くための方法。
目次
第1章 ルースで自由な強さのほうへ―二〇一二~二〇一〇年(二〇一二年四月(初演)『現在地』
二〇一一年九月『家電のように解り合えない』 ほか)
第2章 公共にこんがらがって―二〇〇九~二〇〇八年(二〇〇九年一〇月(初演)『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』
二〇〇九年七月『記憶の部屋について』 ほか)
第3章 作品の文脈―二〇〇八~二〇〇六年(二〇〇八年五月(初演)『フリータイム』
二〇〇七年一一月『ゴーストユース』 ほか)
第4章 演劇という実験―二〇〇六~一九九九年(二〇〇四年二月(初演)『三月の5日間』
一九九九年~二〇〇三年横浜STスポットで)
著者等紹介
岡田利規[オカダトシキ]
1973年生まれ、神奈川県出身。演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。1997年、チェルフィッチュを結成。2005年に『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。2007年にデビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を発表し、第2回大江健三郎賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
しゅん
14
タイトル通り現在(2012年)から1999年へと自らの活動を「遡行」するチェルフィッチュ主催の演劇論。あらゆる自伝の類いはすべてこの形で書いた方が嘘がなくて面白いんじゃないだろうか?代表作『三月の5日間』と今の作品では作風が全く違うし、その辺りの変遷はこれを読むとよくわかる。岡田さんは身体と身体に注がれる情報(言葉や音)との関係性から考え始めており、そこから次第に「フィクション」や「ドラマ」に興味を持ち始めているわけで、演劇に関わる人としてはやはり特殊な在り方だろうな。文体は意外なほど平易。2017/11/05
yu-onore
2
人間が抱えているイメージ(これをわりにグロテスクなものとして捉えているのは示唆的というか)の二種類の表現として言葉と身振りがあって、チェルフィッチュは日常における後者のノイジーさに注目して、それには及ばないにせよ(!)、舞台上の身体がノイズをまとったものとなるように振り付ける。現代口語演劇がハイパーリアリズムとはいえ身体の次元を抑圧していたことへの抵抗というか。構成されたものとしての舞台というよりは、観客に与える効果というか、与えられた舞台(の印象?)が観客の中で構成されて行くことへも関心が移行している2021/10/22
ひろ
2
具象を体現するだけの芝居や言葉で動きを規定することへの嫌悪ないし不可能性、また日常の身体が既に過剰であり、それを凌駕する過剰さを虚構の中で獲得することは諦めているという点は彼の芝居から想像される通りだった。国際的に上演の機会を持つようになり、アフリカ人の書く小説はアフリカのことを書きながらその肩越しに世界を見ている、そのようなことにならないようにしたいと思う、という部分や、2012年時点では社会から芸術に対して即効性のある効果が期待されており、そのことを窮屈と思わずにいたい、というところは新鮮だった。2017/09/29
tomoko
2
直近の活動から、どんどん時間を遡っていく構成にワクワクした。読み進めるほどにルーツに近づき、若さゆえのパッションと感性の鋭さに触れ、高揚したのは、とてもユニークな感覚だった。2017/04/14
MaRuTaTSu
2
時系列を追っていくのではなく、現在から順に遡っていくという形式が、新鮮であるとともに、現在地との距離を素直に受け止めているように感じられる。 まだ著者の作品を、一昨年のベルリンHAUでしか観れてないので、今度は日本ではどんな感じなのか観ていきたい。2016/09/08