内容説明
三歩さがって二歩さがる。壮大な一次元へまっさかさま!三一一以降の世界にくすっと響く、再生の物語。
著者等紹介
福永信[フクナガシン]
1972年生まれ。98年「読み終えて」で第一回ストリートノベル大賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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buchipanda3
98
「ええ」「そうですね」「そのとおり」「たしかに」。何とも奇妙な小説。題名からして変だが、中身も変。一方が途方もなく語り続ける中、もう一方はただ相槌するだけ。それでいて何故か徐々に小説として膨らんでいく。語り役は自由に想像する、いや創造する。相槌役が制限されている中、やりたい放題だ。その暴れっぷりは読み手を明後日な方向へ導き、脳みそを惑わす。不躾な語りはどこか不快で、でも哲学的のようであり、何か理不尽さに対する励ましのようでもある。さらにその文章には何か企みが、遊戯心があるのではとつい読んでしまうのだった。2022/09/22
とら
37
予想以上に面白かった…いや予想を遥かに超えたか。まず福永信さんが気になってて、次に題名で気になって、最後に円城塔さんが帯にコメントを書いてるってことで読むことを確定させた。その帯コメントが「小説とはなんなのかと、小説に直接訊いてみた作者は、史上初かもしれない。悔しい。━円城塔」というもので、まあ読み始めたところ、会話文のみでの物語の進行でした。最初は何やってるか全然分からなかったけど、帯コメントを思い出してからは、ああなるほどと。円城さん悔しがってたのはこの発想思い出したら書いてたってことなんだろうなあ笑2013/07/27
かみしの
13
ひたすらコミュニケーションを図る人間Aと、「そうですね」と相槌を打つだけの人間Bの会話劇。関西では「なんでやねん」といっておけばすべて大丈夫なのだけれど、これは不思議なことで、その言葉に相槌や突込みが含意されている。この相槌の言葉は代替可能であり、したがってその話者も代替可能だ。このAは、いわばひとりで思索の沼に潜っていく。生きるということはコミュニケーションの不可能性をまやかすということだ。きみはきみ、ぼくはぼくのまま「なんでやねん」とノる。Bは純粋化された社会で、他者だ。ちなみに登録1111冊目です。2017/10/26
そうたそ
12
★★★★☆ 非常に不思議な読書経験をした気持ち。極々日常的な会話からのみ成り立つ小説で、一方的に話す語り手と、相槌を打つのみの聞き手。地の文は一切ない。しかし、そこから生まれてくるストーリーと世界。あちらこちらへと世界は広がり、思わぬ方向へ話は展開していく。それが真実かどうかの判別もできぬままに。だが、それを確かめることは大して意味のないことだ。小説とはそういうものであるからだろう。帯で円城塔さんが、小説とは何かを小説に聞いてみた初めての作家」と書いているが、言いえて妙な表現だと、そちらにも感心しきり。2013/02/01
昼と夜
12
ーなんだこれ…。 一度とか時速ー一一キロとか一一一一号室とか二の足とか一歩とか一列とか一体とかが散らされた文章の中に、大関の空瓶とかニット帽とかサンダルの片方とか富士山とかのモチーフがチャート式に配置される。なんだこれ…超新感覚。2012/10/09